造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
へブル4:13
へブル書のこの御言葉・・・ 怖くも感じますが、私は凄くこの御言葉に慰められます。
人それぞれ「自分史」があります。
楽しかった思い出、悲しかった記憶、傷ついた悲しみ・・・涙して喜んだこともあるかもしれない。
でも人間って悲しい思い出の方が記憶に残りやすいと、どこかで読んだように思います。
人間には限界があります。
いくら情熱的な恋人がいても、いつも自分と一緒には居てもらえないし、その情熱も、いつも同じ思いが続くわけではない・・・ 情熱的な恋人にも沢山の「自分史」があり、沢山の記憶があって、恋人の方が慰めや癒しを必要とする部分があるかもしれない。
人間は他者を受け入れるに限界があります。
自分自身も、愛する人の全てを受け入れ、24時間一緒に居て慰めてあげることは不可能で、ずっと変わらない愛情を相手に持つことも難しい・・だって自分も慰めが欲しく、愛が欲しいから。
基本的に、人は自分が受けることを望む。自分だけが与え続けると言うのは出来ないのです。
私たちの髪の毛の数さえご知っていて下さる主(ルカ12:7)
私の「自分史」をご存知で、私の心や精神を熟知してくださっている主。
主の他には誰も居ないのです。
主だけが、私の全てをご存知です。自分の過去も、心の傷も、自分が記憶できていない過去も、実は忘れてしまっている心の傷も、主はご存じなのです。どうしてこんなに悲しくなるのか、複雑に絡まってしまっている心も、主はどこがどの様に絡まているのかご存知です。
私は、本当の私を知ってもらおうと頑張る必要がないのです。自分の事を理解してくれる人を探さなくていいのです。
主はいつもどんな時でも、私の話を聞いてくださいます。
人から癒しを得ようとせず、主の元に立ち返りましょう。
主だけが完璧な癒しを与えてくれる方です。