恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ41:10
病院で看護助手の夜勤パートをしています。
病院での夜勤はとても忙しいのです。
先日、不思議に思った事がありました。
大抵の夜勤では、仕事明けの時には
クタクタなのです。
夜中、走り回っている事が多く、
一晩で3万歩ぐらい移動しているのです。
帰りの電車の中では爆睡。
大抵、駅員さんに起こしてもらっています。
しかし、稀に凄く落ち着いた夜を過ごすこともあります。
「今日は、落ち着いた夜ですよね~」と、
1-2時間、若い看護師さんと色々な話が出来る時があります。
お互いに考えている事や看護師さんの悩み相談を受けたり…
こんな日に会話を通して相手を知り、
仲良くなれるんだな~と思っていました。
仕事を円滑にするためにも、
出来るだけ会話をしたいと思っていました。
でも最近、気が付いたのです。
途轍もなく忙しい夜勤を共に過ごす日があります。
患者さんが、生死を彷徨うような急変した状態になった夜。
ナースコールが鳴りやまない夜。
限界だと感じる位、走り回り、やっと朝を迎えれた時。
このような緊張感があり、
体力的にもギリギリの時があります。
これを一緒に過ごした人とは、
会話をする機会がありません。
しかし、このような時間を一緒に過ごした人達とは、
互いに信頼心が生じます。
わざわざ言葉にしなくても、仲間を思いやる配慮であったり
気配りであったり…。
何とも言えない「親密さ」を感じます。
交わす言葉は多くなく、相手のことも良く知らない。
でも、多くの会話をする人に比べて
ギリギリを一緒に過ごした人に対しては
信頼心と親密さを感じるのです。
そう気づいた時、
ふと「信頼とは何か」ということを考えました。
私は、会話や情報の共有が、
信頼を築くために大切だと思っていました。
「言葉が少ないのに深くつながる関係」というのは
少し不思議な感じを受けました。
けれど、過酷な状況を共に乗り越えたという
「体験の共有」が、言葉以上に心を通わせていたのだと思います。
「一緒に乗り越えた」というだけで、
相手の必死な表情や、誠実さ、追い込まれた中での仲間への配慮。
その様な姿が頭に浮かびます。
「ありがとう」と口に出さなくても、十分に伝わる感謝と敬意。
人は言葉でつながることもできますが、
沈黙の中で通じ合うこともできる…
むしろ、余計な言葉がなくても、
体験の中で結ばれた関係には、
しっかりとした絆が生じる…と気づきました。
このような信頼の形があると気が付いた時、
私はイエス・キリストとの関係にも似ていると思いました。
イエスさまも、私たちが一番苦しい時に、
言葉ではなく「共にいること」でその愛を示してくださる方…。
夜勤で患者さんの急変に立ち会う事が多くあり、
慌ただしく動き回っている時、
私の心の深いところで
「恐れないで、わたしはあなたと共にいる」という御言葉が
ふとよぎることがあります。
誰も見ていないような場面で、
でも確かにイエス様はそこにいてくださる。
それを感じるのは、静かな祈りの中だけでなく、
バタバタと走り回っている最中にも確実にあるのです。
私たちは、苦しみや困難を避けたいと願いますが、
むしろその ‟困難のただ中” において、
主を感じ、主が共に居られると気付く時があります。
信頼は、平穏の中だけで育つものではなく、
むしろ嵐のような夜の中でこそ、確かになるのかも…。
イエスさまと私の間にも、
そんな「沈黙の中の絆」が育まれている気がします。
誰にも見えないけれど、確かにそこにある主との信頼関係。
だから、仕事に向かう電車の中で、静かに祈ります。
「主よ、今日も私の手と足を用いてください。
あなたが共におられることを、どうか忘れずに働けますように。」
沈黙の中の絆は、私の信仰の大きな土台となっている気がします。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)