私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
エペソ2:10
今から新年に向けて祈っていく課題を示されました‼
…聖書を読むと、
登場人物一人ひとりに「主の目的」を感じます。
主がアブラハムを創造された目的。
主がモーセを造られた目的。
主がダビデを造られた目的。
聖書の登場人物には「明確な主の目的」を感じます。
…じゃ… 私は?
主は私をどのような目的を持って創造されたんだろう?
この世の中に存在する物。
人間が造り出した物には、目的があるのです。
机もイスも、ベッドも冷蔵庫も。
鉛筆、消しゴム、ブラシや靴…
全てに目的があり、人間は物を作るのです。
芸術家は自分が見つけた「美を表現」するという目的。
そう思ったら、
私に対しても「主の目的」があるはずなのです。
…主は私にどのような目的をもって創造されたんだろう?
イスは、イスの役割を果たすべきであり、
刃物は、食べ物や木材などを切るべき役割。
刃物が役割を間違えたら、大変なことが起きるのです。
私の役割、主が持たれれている私の目的。
これを絶対に知るべき…
これを知って生きていくべき。
「神さま… どうか主が私に持たれている役割を教えて下さい。
私が主の目的通り生きていきたいし、
主の目的通りの人生を歩みたい…」と祈ってると、
1つの場面を思い出しました。
イエスさまの十字架を代わりに背負ったクレネ人「シモン」です。
傷付いた身体で十字架を担げなくなったイエスさまの代わりに、
ローマの兵士が通りがかりのシモンを捕まえ
十字架を担がせたのです。
多分… その場に居なかった群衆は、十字架を担ぐシモンを
「単なる通りすがりの人」とは思わなかったのではないでしょうか?
イエスさまの「弟子」やイエスさまと「同罪者」だと思ったのではないか?
イエスさまと同様にシモンは群衆から
罵声を受けたと思います。
もしかしたら、群衆から暴力をうけたかもしれない…
シモンはこの時、どう思っただろう?
「どうして自分が?」
「この男(イエスさま)のせいで、どうして自分まで罵声を一緒に浴びないといけないんだ!?」
「なんて不運な事がこの身に起こったんだ…」
自分の不運を嘆いたのではないか?
少なくとも「ラッキー」とは正反対な状態。
しかし、時間が過ぎ、復活したイエスさまを知り
自分が「不運」だと思っていた出来事は、
不運ではなかったと気付いたのです。
「あの時、イエスさまが十字架を背負えなくなった時、
イエスさまの十字架を背負ったのは私だ!」
「私がイエスさまの十字架を共に背負ったんだ!」
…不運が訳もなく降りかかって来たのではなく、
イエスさまの十字架の道を共にした人。
聖書に残る選ばれた人であると知ったのです。
シモンは自分は「世界一不運な人」だと思う事も出来たし、
十字架の道を共にした「世界一祝福された人」とも
思えるのです。
どちらを取るかはシモン次第。
どう受け取るかによって、
シモンの人生は変わると思います。
シモンは自分が選ばれし人だと知ったのです。
そして家族でイエスさまに仕える人生を歩んだのです。
彼は自分の人生の役割を正しく理解し、
それ以降の人生を役割にあった道を歩めたのです。
そんな事を思い出しながら、
…私は何か大きな勘違いをしてるかもしれない…!と思ったのです。
主が私に何かを与えて下さっているのに、
私は、
私って能力が足らない…
私は口が立つわけでもない
私は特に人より勝る点がない…
これといって十分に出来る術がない!
と自分自身に「不合格や力不足というレッテル」を貼っているかもしれません。
「どうせ私なんて何の役にも立たない…」
「あの人たちは立派な奉仕が出来るけど…私には特に何も出来る事はない…」
…私は自分に対して誤解し、
サタンのうそを信じているかもしれません‼
主に聞こう‼
自分がそう思う…ではなく
主がどう思われているのか。
そして主が思われている人生を歩めるようにしたい‼
これを今から新年に向けて祈って行こう‼
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)