私たちが神さまに失望する理由【ホセア6:3】

2024年

私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。

ホセア6:3

昨日、学校の用事で保護者2名と一緒に人に会いました。

その後、ご飯を食べて帰ろうという話になって

1人の保護者が「あ! 行ってみたいお店がある!」と言うのです。

私はお店の名前を聞いても分からなかったのですが、

もう1人の保護者は「あ! 知ってる(笑) 行きたい!」と言ったのです。

私「へー有名なの?」と聞くと

保「有名有名! 行ったら分かる!」と詳しく教えてもらえずに向かったのです。

行ってみると沢山のお客さん…

少し待ってからお店に入りました。

厨房から「空いてる所座って!」という声が…

「え?」と思いながら見渡すと、

テーブルはまだ片付いていない状態。

私たちである程度、片づけると、

バタバタと店員さんが持って行ったのです。

何となくお店の中に違和感を感じました。

そして厨房から他のお客さんに「自分でさっさと取りに来て!」というのです。

その言葉使いもキツイ…

何かと、偉そうにお客さんに言葉をかけるのです。

私は「何ココ??」と、嫌な気持ちになりました。

2人は私の表情を察して「こんなお店、こんなお店(笑)」と

笑っています。

私は直ぐに気持ちが対応できず、

店長さんらしき人の態度や言葉遣いに「は??」と反応したのです。

しかし、目の前の2人や他のお客さんたちは

店長さんの暴言を聞く度に、クスクス笑っているのです。

その様子を見て

「あ~ こんなお店なのか…」と状況を把握しました。

その後は、店長さんの暴言を聞いても、

私は他の人と一緒に、クスっと笑う事が出来たのです。

後になって、この自分の心の動き、変化が面白いなと思ったのです。

どうして、始めは嫌な気持ちだったのに、

直ぐにクスっと笑える状態、

その場を楽しめる状態になったのか…?

そう思った時に、そのお店の店長さんのスタイルを知っているかどうかが

大きいと思います。

店長さんの「お客さんにも暴言スタイル」と言うのを

知っていてお店に来る人は、

その暴言がストレスではなく面白いのです。

しかし、知らない人がその場に居ると、

「お客さんは神さま」という常識に則っていないお店…

受けるはずのサービスを貰えない状態。

自分が何故か弱者に置かれている状態。

に対して、違和感を覚え、腹立たしさまで感じるのです。

この差は、この店長のスタイルを知ってるか、知らないかの差。

店長のスタイルを知っていれば、

楽しみとなり、

店長のスタイルを知らなければ、

ストレスとなるのです。

そう考えたら、日常でも同じだと思います。

「あーーあの人が言うなら仕方ない」

「あの人はいつもそう。」

「あの人はあのような言い方をするけれど、悪気はない人。」

と容認し、受け取る事が多いのです。

そう思ったら…

…私は主のスタイルを知っているんだろうか?

主のスタイル。

主がどういったお方なのか。

主の属性です。

主がどのようなお方なのかを知らなかったら、

私が「お店の人にとって、お客様は神さま」という常識のように、

自分が持つ神さまという存在の常識で、

今置かれている自分の状態を判断してしまうのです。

私たちの常識的な神さまの姿…

正しく、汚れがない。公平であり、罪ある人を裁く。私たちを守る。…など

何となく「神さまとはこういう方だろう…」という意識をもっています。

その常識に則った意識を持ちながら、

それに反する状態になったら…

私たちは神に失望するのです。

どうして? 主がいるならどうして、こんな事が起きるの??

と強い反応を見せるのです。

しかし、私たちが主がどういったお方なのかを知れば、

感じ方も変わるんだと思います。

私は主について、知らなすぎ…💦

それが、信仰を疑心暗鬼にさせているのではないか?

私たちがまずするべき事は、

主がどういったお方なのかを知る。

知れば知るほど、人生を楽しめるのではないか…と思いました。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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