父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。詩篇103:13-14
最近、長男も次男も、凄く主に満たされています。
特に次男は一緒に住んでいるので、
熱く語ってくれます。
そしてZOOMで、一緒にQT(デボーション)している人がいるようで
凄く熱く祈っている姿を見るのです。
その姿を見ながら、
この年頃で(高2)、そんなに熱く祈ってる姿を親に見られる事が
恥ずかしいとか感じないんだろうか?と
ふと思ったのです。
でも多分… 恥ずかしいという感情より、
満たされている方が大きいんだと思います。
そんな事を考えながら、自分の若い時を思い出したのです。
…私も大きな声で祈り続けた時期があったな…
あの時は、人に聞かれるとか、見られるとか、
ちょっと引かれるとか考えもせず祈った…
次男のように「主に私の全てを捧げます!」
「主と共に人生を歩みたいです‼」
と、涙ながらに祈ったその思いを、
ずっと持ち続けているだろうか…
信仰を持って30年程。
振り返って見て思った事があります。
御言葉や、礼拝や、聖書通読、賛美集会、セミナ―などを通して
凄く心が揺さぶられ…熱くなり…
今の次男のように「主に私の全てを捧げます‼」と
何度、祈っただろう…?
多分、私は何度も何度もそのような告白をしました。
しかし、ずっと同じ思いを持ち続ける事が出来ていませんでした。
この30年の間に、
信仰さえ揺れる事が何度もあったし、
「主よ、どうしてですか?」と数えきれないほど主に訴えました。
「あなたは本当にいらっしゃるのですか?」と祈る事もありました。
そう思うと…
私って「オオカミ少年」みたいだな…と思ったのです。
「オオカミが来た~‼」と何度も町の人に言うのです。
その少年の声を聞いた、町の人々は大騒ぎしたのです。
そして、何度もその様に叫ぶ声に、人々は信用しなくなったのです。
「また、ウソを言ってる。どうせ、オオカミは来ていない」と思い、
本当にオオカミが来た時に、少年は信じて貰えなかったのです。
私はオオカミ少年のように
「主よ!私はあなたに全てを捧げたいです!」と何度告白しただろう…?
そしてその熱い思いは、
次に襲って来る困難によって、いとも簡単に消沈…
私は、これを繰り返してきたのです。
これを繰り返し、その結果どうなったのでしょうか。
主は私の告白を信じられなくなった?
そうではなく、
私が、私を信じられなくなっていくのです。
段々と「今日、すっごく満たされた‼ けど…」
「また私は困難がやってくると、
そんな主への思いは消えていくんだろうな…」
「凄く満たされたけど… 多分…
私はこの熱い思いを持ち続ける事は不可能なんだろうな…」
「私はこの満たされた場を離れ、
日常に戻った時にも同じ告白をできるだろうか…」と
自分で自分を信じられなくなっていくのです。
どうせ私は…と言った思い。
信仰のオオカミ少年…💦
もしかしたら、満たされても自分がまたいとも簡単に
その思いがなくなってしまう事を考え、
満たされても、捧げたくなっても、
「捧げたいです!」という告白さえしなくなる恐れもあります。
どうせ…自分は献身する勇気はない…
どうせ、また直ぐに心は変わってしまう…と。
自分で自分を信じれなくなる状態。
しかし、主はどうでしょうか。
主は、私たちの告白をどの様に聞いておられるでしょうか。
「どうせ…また…」と鼻で笑われるのでしょうか。
聖書には何と書いているでしょうか。
私たちがちりにしかすぎない者である事を心に留めておられるのです。
憐れみを持たれているのです。
主は、私たちの弱さに同情できない方ではないと聖書に書いてあります。
私たちは、主の手のひらに刻まれているのです。
主は、私たちの弱い信仰告白さえ、覚えておられる方なのです。
私たちの直ぐに揺れ動く信仰。
私たちの直ぐに忘れてしまう信仰告白…
私たちのその瞬間、心からの私たちの信仰告白を、
主は覚えておられるのです…
その度に、主はその告白を信じて下さっていると思います。
そして、その度に主は私たちに期待され待たれているんだと思います。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)