イエスは宮で群集を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちがい、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、
イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」
そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。
ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」
すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」
そこで、「どこからか知りません」と答えた。
するとイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。ルカ20:1-8
次男が今日の聖書の箇所を読んで、私に質問しました。
「どうして主は正直に答えられないのか?」と。
イエスさまは宮で群衆に教えられていたのです。
それを見た律法学者たちは
「あなたは何の権威でそれをしているのか?」と質問。
イエスさまは反対に質問しました。
「ヨハネは人から来たのか、天から来たのか?」
群衆はヨハネを預言者だと認めていたのです。
律法学者たちは返答に困りました。
天からだと答えれば「どうしてヨハネを信じないのか?」と詰められる。
「人から…」と答えれば、民衆が自分たちを石打ちにするだろう…
困った挙句「分からない」と答えたのです。
そしてイエスさまも
「では私も、あなたがたに話すまい」と言われました。
イエスさまの権威は、天から来られたのです。
律法学者たちの質問の狙いは、主を捕らえること。
しかし、主の時はまだ来ていなかったのです。
主が十字架に架かる時は、まだ…。
だから今、捕まえようとする人々をかわしたのです。
…私たちは聖書を読んで「どうしてだろう…?」と思う事が多くあります。
「地に平和を与える為にわたしが来たのではない」(ルカ12:51)
「あなたの敵を愛しなさい」(マタイ5:44)
「後の者が先になり、先の者があとになる」(マタイ20)
私は、この様に「?」と感じる箇所がいくつもあります。
先日ブログに書いた、会堂管理者ヤイロと長血を患っていた女性。
私たちの目で見て、ヤイロの方が救急を要するのです。
しかも、ヤイロの方が先にイエスさまに助けを求めています。
しかし、イエスさまはヤイロを横に置き、
先に女性に時間を取って癒しているのです。
聖書は、私たちの常識と違う部分があるのです。
私たちの思考と主の思考。
どちらが絶対的なのでしょうか。
私たちは主の被造物です。
そして罪を持っており、罪や悪の中で生まれ生きているのです。
間違った考え方。間違った価値観。
心の傷や、絶望感など、
主から離れて生き、
主とは離れた基準を持ってしまっているのです。
自分の目に正しく見えても、
主の目に正しいかどうかは分からない…
だから、私たちは聖書を読み、
主の価値観、基準を学ぶ必要があるのです。
次男がした質問も、
単に「主の時がまだ来ていないから」だけでなく、
その時の律法学者たちにとって
一番心に響く答えだったのかもしれません。
主は、人の救いを望まれています。
主のその答えが、彼らにとって考えるきっかけや時間となったのかも。
自分と違う、自分には受け入れられない事が聖書に書かれている場合、
「これは主が言われている事だから…」という受け止め方も
時には必要かも知れませんが、
「主よ。この真意を教えて下さい。私が悟る事が出来ますように」と
一つひとつを祈り求め、
主がどのようなお方であるのか、
また自分が主とどれ程離れてしまっているのかを
知っていく事が大切だな…と思いました。
今日も、主をもっと知っていく一日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)