自分に克服したい弱さはありますか?【Ⅱコリント1:9】

2024年

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

Ⅱコリント1:9

自分の性格…どうですか?  好きですか?

私は子どもの時から、凄く ‟人見知り” でした。

幼稚園の時も、誰かと遊んだ記憶はなく、幼稚園で一人で遊んでいました。

小学校へ行っても、隣の席の子に話しかけることも出来ず、

また図工の時間に何かを作るとなると、

自分の作っているものを、周りの子に見られるのが恥ずかしく、

何も出来ずにずっと席に座っていたのを覚えています。

こんな性格嫌だなあ…と小さい時から思っていました。

友達を作り、一緒に遊んだり、笑ったりできたらどんなに楽しいだろう…と思っていました。

性格を改善しようと、自分なりに努力をしました。

しかし、努力とは別に、人間は多かれ少なかれ、誰かに、または何かに傷付きながら生きて行くのです。

私にも大きな傷が沢山ありました。

私の持つ心の傷は、私を一層、暗い方へ、孤独な方へ、自己評価を下げるのです。

そんな私は、いくら努力しても人見知り、恥ずかしさを克服するのは難しく、

成人になっても性格のベースには、幼児の時から変わらず人見知りがあったのです。

また、私は中学に入学してから高2まで体調が悪く、勉強せずに過ごしました。

高2の終わりに、このまま大人になったらダメだ…と思い、

勉強を始めましたが、小学校を卒業してから勉強せずにいたので、

漢字も読めないし、教科書を読んでも意味が分からないのです。

私は人見知りの上、自分が「知らない」という事に

凄くコンプレックスを持ってしまいました。

社会に出て、先輩や上司という大人と話す時、

自分が知らない言葉や常識が出てくると、

何とも言えない思いに潰されそうになり、

走ってその場から離れ、家にいる母の元に帰りたくなりました。

そして母のひざ元で泣きたい…という思いに駆られていました。(一度もそのようにはした事はないのですが)

分からない事がある事に対して、不安になり、

自分が本当に何も出来ない、価値もなく、会話も出来ず、

自分が本当に嫌になるのです。

私はこれから、もっともっと大人になっていくのに…

こんな自分で生きていけるんだろうか…という不安に襲われたのです。

そして、24歳の時に主に出会いました。

主は色々な方法で、私の根底にある心の傷を探られました。

主によって大きく癒して頂いたのですが、

主の癒しを得る時、癒しの過程で、自分の心の傷と向き合わなければいけないのです。

思い出したくない事まで、思い出されるのです。

ですから、普段私が不安に襲われ、心を痛めてた以上の苦しさの中を、通らなければなりませんでした。

本当に本当に苦しかった…

息をするのも苦しかった…

しかし、主はその先に、傷からの解放を与えて下さいました。

今の私はどうでしょうか。

私が昔受けた心の傷の記憶は、無くなることはないのです。

しかし、昔と今で大きく違う事は、思い出しても涙はでません。

心が痛まないのです。

記憶としてあるだけです。

私がクリスチャンになって以降に知り合った人は、

私が人見知りだとは思ってもいません。

反対に「人との距離を縮めるの半端ない!」と言われます。(直ぐに仲良くなるという意味です)

私が「本当は私は人見知りなの」と言っても、

「そんな冗談、もういいから」と言われます。

しかし、私の根底には、まだ ‟人見知り“ があります。

今も、人に会う事、特に新しい人に会うのが難しいのです。

誰か知らない人に会うとなると、心も気も凄く重くなり、逃げたくなるのです。

「どうしよう… 主よ。どうしたらいいですか。とりあえず断っても良いですか?」と聞いてしまいます。

しかし、今はこの人見知りの部分に、主が働かれているのを感じます。

私が「主よ…会う事を断ってもいいですか?」と祈り、

心にこんな言葉が響く時があります。

「あなたが会って、私の愛を伝えてくれないか」

「あなたが会って、私の代わりにハグをしてくれないか」

すると、一瞬にして「行きます!!!」と気持ちが変わるのです。

急に、会う事が楽しみになり、早く会いたい!!という思いに

一瞬で心が変えられるのです。

私は自分の中に、人見知りがあるのを知っています。

しかし実際には、傍から見ると、そんな事を少しも感じさせない関係を築けています。

「どうしてだろう…」と考えました。

人見知りが完全になくなって、積極性が与えられたのなら、疑問に思わないのですが。

人と会うとなると、一旦、心に負担を感じ、無理だ…という感情がでるのです。

どうしてこの感情を取らずに、積極性を与えられたんだろう…

主が私の弱さの中で働いて下さってる事を、私がずっと記憶する為だと思います。

人間関係において、主が私に積極性を与えられた時、

私は、相手の方が凄く凄く、愛らしく見えるのです。

主が凄く愛している人に、今私は会えている。と感じるのです。

また、私が初めて会う人は、相手も私を初めて会うのです。

緊張しているかもしれません。

心に不安があるかもしれません。

もしかしたら、私のような人見知りかもしれません。

そう思うと「早く主の愛で包み込んであげよう」という思いが与えられるのです。

もし、私は主と出会っていなければ、

主から心の傷の癒しを得れてなければ、

幼い時同様、人と会うのが難しい、単なる人見知りだったと思います。

主は、私から完全に弱さを取らず、弱さを残したまま、働いて下さるのです。

私は自分の弱さと対面する度に、主が働かれるのを感じる事がでいるのです。

主は、本当に素晴らしい…!!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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