わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ29:11
人の証を聞いて「わーー凄い! 神さまって素晴らしい!」と感じる事があります。
病が癒された!とか、必要が与えられた!とか
思わず「アーメン‼」と言う証。
そしてその次に思う事は「私もそんな体験をしたい…!」
しかし、なかなか同じような体験が出来ないのです。
どうしてなんだろう…と思いました。
私は、知り合いの姉妹の証が凄く好きで、
何十回と聞いています。
そして聞く度に、涙が流れます。
彼女の証は、病が癒された!とか、
何か驚くような奇跡を体験した証ではありません。
どちらかと言えば、地味な証…
しかし、本当に何度も聞きたくなる証なのです。
一言で表現するとしたら、
「主の伏線」が見える証なのです。
あの時、あんな風に感じた感情に意味があったと、
何十年もたってから、しっかり知る事が出来ているのです。
あの時のあの出来事、苦しく辛かったことが
無意味でなく、主が準備されていたものだったと
しっかり悟る事が出来ているのです。
辛い出来事や、苦しい感情、嫌な思い出、思い出したくない記憶…
全てが繋がっている事を知っていくという証。
まるでパズルを仕上げていく様な感じ。
私は、何度もこの証を聞きながら、
「どうしたら、私も彼女のような信仰を持てるだろう…」
「どうしたら、私も彼女のように主の伏線に気付くことが出来るだろう…」と思うのです。
辛く苦しい時間を過ごしたとしても、
それには主の大きな意味があり、伏線であったと気付けたら…
人生をもっと大きな器で受け止める事ができるのではないか…
多少の問題が生じても、「絶対に主の計画がある!」と
簡単には揺るがない信仰をもてるのではないか…と思うのです。
彼女の信仰と私の信仰。
どこに違いがあるんだろう…とこの証を聞き直す度に考えていました。
今日、何カ月ぶりかに彼女の証を聞き直しました。
3回聞き「彼女と私の違い」について
主に聞きながら思いを巡らせていたのです。
そして夕飯の準備をしながらも…
「主よ。私と彼女の違いを教えて下さい…」と祈る中、
ある場面を思い出したのです。
次男が小学校低学年の時、
学校行事の準備をする為、Aさんの家に複数の保護者が集まったのです。
そして、Aさんが昼ご飯まで準備してくれたのです。
何を食べたかは忘れたのですが、
とてもお洒落な感じで美味しかったのです。
そして皆で「こんなり料理が得意だなんて思わなかった!」
「とっても美味しい…料理好きなの?」と聞いたのです。
するとAさんが
「結婚する前までは料理をした事がなかった(笑)」
「だから結婚して、私が食事の準備をしないといけないから、
毎日、すごくストレスで、親に‟今日のご飯、何作ったらいい?”と
献立を決めてもらい、作り方を電話でおしえてもらっていた(笑)」
「初めは、毎日泣きながらご飯の準備をしていた(笑)」と言う場面です。
当時、私はその話を聞いて「えーースタートは(互いに結婚した当時)」
私の方が料理が上手だったはず…💦
結婚して10年以上たった今、彼女の方が遥かに料理上手…💦
と言う感想を持っていました。
それを思い出したのです。
彼女はどうして料理上手になったんだろう…と考えました。
そして、どうして私は昔も今も、
そんなに料理の実力に代わりがないんだろう…?
と考えたのです。
彼女は努力したのです。
単に「頑張ろう!」「料理上手になろう!」と言うより
この10数年間、料理を楽しんだのです。
これを作ってみよう!
前よりも上手にできた!
今回はちょっと美味しい!
このような思いが彼女に向上心を持たせ、
料理の実力が付いたのではないか…?
それに引き換え私は…
「あ…今日もご飯準備しないと…」
「これでいいか!」
「あ…誰かご飯作ってくれないかな…」
と言うような思いで過ごしていたのです。
この思いが、実力に差をつけたのです‼
そんな事を考えながら、少し分かったように思いました。
Aさんは、ずっと主を求め続けたのです。
辛い時も、悲しい時も、大泣きしながらも、
理不尽を感じながらも…
主から離れず、主の御心を知ろうと努めたのです。
それに引き換え私は、
「もう本当にダメだ…」
「こればっかりは…方法がない…」
「主は働いて下さらないかもしれない…」
「とりあえず…辛すぎて…💦」
このような思いが心に一杯なのです…
確かに、パズルも
「このピースは、どの部分だろう?」
「これとこれが繋がるのか?」
「これはどの部分だろう?」
「多分、この色のピースはこの部分だろう」
という思いなしでパズルを完成する事は難しい。
このような思いなしで、するパズルはストレスであり
楽しくなく苦痛。
そして、パズルも進まないハズ。
…改めて、私の信仰に何が大切で必要かと考えたら、
状況に左右されず、時が良くても悪くても
主を信じるという事を常に選択する!
信じるとは、主を選択するという事…
主をもっと知りたい…
という、自分の信仰の成長を望むこと。
確かに…
私たちが主に
「私の信仰がもっと成長しますように‼」と言う祈りは
喜ばれる祈りであり、
主の御心に沿う祈り。
今日からは、口癖のように祈って行こう!
主よ。私の信仰がもっと成長しますように‼
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)