そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話ください。しもべは聞いております」と申し上げた。
Ⅰサムエル3:10
昨日、PTAの用事で学校に行きました。
偶然に来ていた保護者に会いました。
次男が小学校に入学した時からずっと同じクラスの
クリスチャンの保護者です。
私「教会、ずっと通ってる?」と聞きました。
A「通ってるよ~」
私「教会の人たちはみんな元気?」と聞くと
A「教会から派遣していた宣教師先生が帰国した」というのです。
コロナからの円安で、十分なサポートが出来なくなったそうです。
A「私がもっと、お金を儲けられたらいいんだけど…」
私「(笑)」
A「お金を沢山儲けれるようになりたい!
そしたら沢山献金できるのに…宣教師先生も助けれるのに」
という話をしました。
彼女は覚えていないと思うのですが、
何年も前にも同じことを話していました。
「沢山お金を儲けたい。そしたら沢山献金できるのに」
私を含め、多くの人は、
条件や環境が揃えば、するのに… 従うのに…と
考えやすいようです。
「もう少し、生活が豊かになったら、海外宣教の為に献金しよう」
「もう少し、余裕ができたら、会堂献金をしよう」
「この忙しい仕事が終わったら、聖書通読しよう」
「この問題が解決したら、聖書の学びをスタートさせたい」
「あの人さえいなければ、私はもっと幸せに生きれるのに」
「〇年後に献身しよう…」
「献身は今の自分は無理。もっと霊的に成長してから」
「もっと…だったら…」
「もう少し、…だったら」
「少なくともこれが終わってから…」
自分で環境や準備を整えようとします。
「まず」条件を揃えようとするのです。
…しかし、自分が思い描くような条件は揃うのでしょうか。
お金を儲けれたら…という思いは、
いつになっても、どれ程儲けたとしても、
満足値に到達できないと思います。
私が韓国に留学して神学校に行こう!と決心した時、
韓国語を数ヶ月習う所を探しました。(随分昔)
当時は「韓流」や「KPOP」という言葉がない時代。
韓国語教室を探しても通える所が2つしかありませんでした。
そして、会社帰りに通える方に通う事にしました。
「日本人がどうして韓国語を習いたいのか?」と
おじいちゃん先生が聞きました。
「私はクリスチャンで、韓国の神学校に行きたいのです」というと
凄く驚かれたのです。
日本に30年住んで、初めて自分の口から
「私はクリスチャンです」と聞いたと言うのです。
先生もクリスチャンで韓国の教会の長老さんでした。
色々な話をする中、
自分は大きな後悔をしてる…と言うのです。
そしてその後悔が、私と出会って増々大きくなったというのです。
初めて会ったのに…どういう意味なんだろう…と質問すると
若い時に、主からの使命を受けたそうです。
そして献身しようか随分悩んだそうです。
当時、仕事が上手くいっていたそうです。
これがある程度片付いたら…献身しよう!と思い、
片づける為に、仕事に集中したそうです。
しかし、なかなか踏ん切りをつけるきっかけを持てずにいて、
時間の流れと共に、献身の思いを忘れて行ったそうです。
「もし過去に戻れるのなら、私は直ぐに仕事を辞め従うのに…
私はもう、主に従うにしては、年を取り過ぎた…」
と凄く残念そうに話されました。
…主に従うのは「今」です。
自分で条件や環境を整えようとしない…
聖書通読を始めるのも、
主との時間を持ち始めるのも、
とりなしの祈りを始めるのも、
宣教師になるのも、
神学校にいくのも…
奉仕を始めるのも。
主が呼ばれた時、
サムエルのように、
「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と
答えれるようになりたい…
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)