今は辛すぎて、礼拝できる状態ではない…【ヨブ1:20-22】

2024年

このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

ヨブ1:20-22

聖書で好きな書がありますか?

私は好きな書は、いくつもあるのですが、あまり好きではない書もありました。

それが「ヨブ記」です。

ヨブ記は重すぎるからです。

こんな事が起こったら…と考えるだけで苦しくなります。

ですので、ヨブ記はあまり読みたくない書でした。

しかし、ここ1-2年、ヨブ記に目が行くようになりました。

そして、ヨブ記から学ぶ事が多いと感じており、ヨブ記を読む度に感嘆します。

ヨブは、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人だと聖書に記録されています。

神の目に正しい人でありながらも、

一度にして多くのものを失ってしまうのです。

10人の子どもたち、財産。

ヨブは経済的に凄く祝福されていました。

子どもたちも仲が良い状態。

凄く幸せだったのではないでしょうか。

しかし、それらが一日の内に全て失ったのです。

一度にすべてを失ったと知った時のヨブの状態が、

今日の御言葉です。

ヨブが主に対してまずした行動は「礼拝」なのです。

そして彼は、1つの愚痴さえこぼさなかったのです💦

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

ほむべきかな…と言っています…

ほむべきかな?

「賛美されるにふさわしい」

「たたえられる価値がある」

「あがめられるべき方である」という意味です…

…私だったら絶対に「主よ!!! どうしてですか!!!」と言っています。

私は自分の人生でヨブ程の苦難に遭った事はありません。

しかし「主よ!!! どうしてですか!!!」

「主がおられるなら、どうして⁇」

「主は、全てをご存知ではないのですか⁇」と

今までに何度、文句を言っただろう…

この数節の聖書の箇所から学ぶ事は、

「礼拝」は「決断」だという事だと思います。

私たちは「もう苦しすぎて、礼拝にいけない」

「元気になったら礼拝に行くよ」

「忙しすぎて…」「状況が厳しすぎて…」

「それどころじゃない…」とまで…

ヨブから学ぶ事は、

礼拝は、自分の状況に左右されるものではないという事。

また自分の状況に左右され、主が崇められなくなる事はない…

ヨブは、自分が経済的に祝福されていた時も、

全てを失った時も、

主を崇め礼拝したのです。

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。」

もともと、何も持たずにこの世に生まれました。

今ある財産は、私のものではなく、主のものである。

という考え方がいつも自然と持っていたのだと思います。

だからこそ、このような最大の困難に陥った時にも、

このように「主は与え、主は取られる」という祈りが出てくるんだと思います。

反対に「主よ!!! どうしてですか!!!」と叫んでしまう私は、

自分の物だと思っているんだと思います。

自分の努力で手に入れた。

頑張った結果。努力の結果。

このような意識があるから、「どうしてですか⁇」という思いが湧き出てくるのです。

ヨブももちろん、心が痛みましたが、

ホテルマンのように、荷物を預かり、主人が荷物を取りに来られた。ぐらいの思いがあったのではないかと思います。

お返しするのは、辛すぎますが…

しかし私は一時だけ預かった身であり、

主が取りに来られたら、お返しするのが道理である…

苦難に見舞われて、文句が出てくるのは「私のもの」という

意識を持っているからなんだ…と思いました。

ヨブのような状況は、取り繕う事はできません。

素の自分がでます。

今の私なら、

ヨブのように礼拝したり「ほむべきかな」というような、感謝な言葉は出てこない…

まず、主が私に預けて下さっているものを感謝する時間を持とう…

家族も、子どもも、健康も、仕事も、信仰も、友達も、ブログを書く時間も…

今日は、主が私に与えて下さっている事を一つずつ思い出し、感謝をしようと思います。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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