このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。ヨブ1:20-22
聖書で好きな書がありますか?
私は好きな書は、いくつもあるのですが、あまり好きではない書もありました。
それが「ヨブ記」です。
ヨブ記は重すぎるからです。
こんな事が起こったら…と考えるだけで苦しくなります。
ですので、ヨブ記はあまり読みたくない書でした。
しかし、ここ1-2年、ヨブ記に目が行くようになりました。
そして、ヨブ記から学ぶ事が多いと感じており、ヨブ記を読む度に感嘆します。
ヨブは、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人だと聖書に記録されています。
神の目に正しい人でありながらも、
一度にして多くのものを失ってしまうのです。
10人の子どもたち、財産。
ヨブは経済的に凄く祝福されていました。
子どもたちも仲が良い状態。
凄く幸せだったのではないでしょうか。
しかし、それらが一日の内に全て失ったのです。
一度にすべてを失ったと知った時のヨブの状態が、
今日の御言葉です。
ヨブが主に対してまずした行動は「礼拝」なのです。
そして彼は、1つの愚痴さえこぼさなかったのです💦
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ほむべきかな…と言っています…
ほむべきかな?
「賛美されるにふさわしい」
「たたえられる価値がある」
「あがめられるべき方である」という意味です…
…私だったら絶対に「主よ!!! どうしてですか!!!」と言っています。
私は自分の人生でヨブ程の苦難に遭った事はありません。
しかし「主よ!!! どうしてですか!!!」
「主がおられるなら、どうして⁇」
「主は、全てをご存知ではないのですか⁇」と
今までに何度、文句を言っただろう…
この数節の聖書の箇所から学ぶ事は、
「礼拝」は「決断」だという事だと思います。
私たちは「もう苦しすぎて、礼拝にいけない」
「元気になったら礼拝に行くよ」
「忙しすぎて…」「状況が厳しすぎて…」
「それどころじゃない…」とまで…
ヨブから学ぶ事は、
礼拝は、自分の状況に左右されるものではないという事。
また自分の状況に左右され、主が崇められなくなる事はない…
ヨブは、自分が経済的に祝福されていた時も、
全てを失った時も、
主を崇め礼拝したのです。
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。」
もともと、何も持たずにこの世に生まれました。
今ある財産は、私のものではなく、主のものである。
という考え方がいつも自然と持っていたのだと思います。
だからこそ、このような最大の困難に陥った時にも、
このように「主は与え、主は取られる」という祈りが出てくるんだと思います。
反対に「主よ!!! どうしてですか!!!」と叫んでしまう私は、
自分の物だと思っているんだと思います。
自分の努力で手に入れた。
頑張った結果。努力の結果。
このような意識があるから、「どうしてですか⁇」という思いが湧き出てくるのです。
ヨブももちろん、心が痛みましたが、
ホテルマンのように、荷物を預かり、主人が荷物を取りに来られた。ぐらいの思いがあったのではないかと思います。
お返しするのは、辛すぎますが…
しかし私は一時だけ預かった身であり、
主が取りに来られたら、お返しするのが道理である…
苦難に見舞われて、文句が出てくるのは「私のもの」という
意識を持っているからなんだ…と思いました。
ヨブのような状況は、取り繕う事はできません。
素の自分がでます。
今の私なら、
ヨブのように礼拝したり「ほむべきかな」というような、感謝な言葉は出てこない…
まず、主が私に預けて下さっているものを感謝する時間を持とう…
家族も、子どもも、健康も、仕事も、信仰も、友達も、ブログを書く時間も…
今日は、主が私に与えて下さっている事を一つずつ思い出し、感謝をしようと思います。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)