「主の祝福」を受けるという事【Ⅰサムエル16:11-13】

2024年

サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」
エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」
サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

Ⅰサムエル16:11-13

聖書の中には、主に用いられた人物が多くいます。

今日はダビデを黙想したいです。

8人兄弟の末っ子のダビデ

…どの様な人物でしょうか。

聖書には文字として書かれていませんが、

私は、ダビデは寂しい思いをして育ったのではないかと思います。

預言者サムエルが、エッサイを特別に招いた時、

父エッサイは、7人の兄たちだけを連れて行ったのです。

家族みんなで出かけ、末っ子ダビデには羊の番をさせていたのです。

また、サムエルが兄たちを見た時、

主が選ばれた器だと感じる程、立派な体格と容姿だったのです。

サムエルの目にも、兄たちは一目見て、立派な人物だと感じるものを兄たちは持っていたのです。

であるなら、父エッサイにとっては、立派な後継ぎが数名いるという事で、

安心していたのではないでしょうか。

8人兄弟であれば、長男と末っ子ダビデの年の差は10歳以上あるはず。

ダビデはいつまでも、何も出来ない幼い末っ子扱いだったんだと思います。

特別な招きの中にダビデがいない事を、

他の兄弟たちも気にされない存在だったのです。

この事から、ダビデは家族の中で、自然と忘れられる存在だったんだと分かります。

親や兄弟から期待されることもなく、

家族は、長男や次男辺りが大切にされていたのではないでしょうか。

預言者サムエルは、人間的な視点ではなく、主の御声に従い、

ダビデを選び「油の注ぎ」をしたのです。

つまりダビデは「主の祝福」を受けたのです。

するとダビデはどうなったのでしょうか。

「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」と記録されています。

ダビデは、この油の注ぎを受けた日から、変わったのです。

この油の注ぎを受けるまでは、

ダビデの名前は聖書に出てこないのです。

ダビデの事を「末っ子」と書かれています。

しかし、油の注ぎを受けてからは

「ダビデ」という名前で記録され、「末っ子」とは呼ばれなくなったのです。

主は名前を重要視されます。

この日から呼び名が変わったというのは、大きな変化が起こったという事です。

この日から、ダビデはイスラエルの王になると決められ、祝福を受けたのです。

そして、ダビデはこの日から時間をかけて、ゆっくりイスラエルの王になるものとして変えられていくのです。

その時のイスラエルの王、サウル王に竪琴を弾く者として、突如呼ばれるようになりました。

そしてある日、兄たちにお弁当を届けるという家の手伝いをしている中、ゴリアテと遭遇したのです。

そして、サウル王に認められ、戦いを率いる者となりました。

ここまでのダビデの人生を見て、

「主の祝福」を受けるという事は、

今までと違う人生を歩むという事になるという事が分かります。

そして、今までと違う人生を歩む為に、

今までの人生で積み重ねて来たものを、主は用いられるという事が分かります。

ダビデは、羊飼いでした。

ダビデは誰もができる仕事を通して、熊やライオンと戦うという事を身に付けたのです。

ダビデは、仕事の合間に竪琴を持って主を賛美していたのです。

賛美を通して、ダビデは主と共に時間を過ごしていたのです。

常に賛美をしていたのです。

難しくない、どちらかと言えば「特に何もできないから」与えられていた仕事だったのです。

ダビデは、自分に与えられた仕事を通して、

獣と戦う術、竪琴の演奏、主と時間を過ごす事

これらを得たのです。

そして主は、ダビデが得たものを用いられたのです。

また、竪琴を通して、ダビデは王宮に出入りする者へと導かれたのです。

将来、イスラエルの王となるダビデは、

竪琴を通して、王宮という今までは全く未知な世界を学ぶ道を開かれたのです。

竪琴を通して、王となる準備が始まったのです。

ダビデは、油の注ぎを受けてから、寂しさに目を留めず、

油注がれた者としての歩みを始めたように思います。

そう考えたら「祝福を受けた者」は、

自分の中に何を入れていくか…が重要だと言えると思います。

もし、ダビデが「自分は油注がれた者」だという認識が薄かったら、

3mほどあるゴリアテと戦う!という事を自ら志願しなかったと思います。

熊やライオンから守って下さった主が、今も自分と共に居て下さり、

主が自分を通して戦って下さり、勝利を与えて下さる!という信仰があったのです。

私たちは主の祝福を受けた者。

「油の注ぎ」を受けた者だという認識が必要です。

私たちも、自分は油注がれた者として歩む必要があります。

信仰によって、

良いものを選択していく必要があるのです。

ダビデが常に主に賛美していたように、

私たちも、日々賛美を捧げ、

聖書の御言葉を自分のものとして、

自分の中に取り込み続け、歩んで行く必要があるのです。

今日も、主と共に時間を過ごし歩む事を選択しましょう!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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