人生のゴールを目指して生きる【Ⅰコリント9:26】

2024年

ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方をしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

Ⅰコリント9:26

病院にいると、少しでも話をしたい…と思っておられる方が多いです。

少し話をしてその病室から去る時に「また来ますね~」というと

「ホントに来てね!」と言われます。

単に暇だから…というより、話を聞いて欲しい。不安。と言った感じです。

しかし、話しかけても全く一言も話さない方もいらっしゃいます。(看護師さんとは最低限の会話はする)

今、入院されているAさんも1カ月以上入院されていますが、話しかけても全く話されません。

いつものようにAさんの個室に入り、明日の予定(採血・リハビリなど)を伝えに行きました。

するとちょっと体調が悪そう…「Aさん…大丈夫ですか?」と声をかけると同時に吐血…

急いでナースコールしたのですが、大量下血まで💦

バイタルも不安定になり騒然となりましたが、一命は取り留めた様子。

次の出勤時に、Aさんはどうだろう…と思い部屋に行くと、前回に見た人とは別人かと思えるほど回復。

「Aさん、体調落ち着いたみたいで良かったです!」というと、「あ…あの時の…」と、初めてAさんの声を聞きました。

そして色々と話をしてくれました。

他の患者さんもよく似た話をされますが、

「自分の人生、これで良かったのか」

「これで終わってしまって良いのか」

「人生が虚しい」

と言うような事を口にされました。

話を聞きながら、人生って本当にマラソンみたいだな…と思いました。

ゴールを分からずに走って、ここまで来たんだろうな。

疑問を持たずに、人が走る方向に自分も沿って走り、

前の人や横の人を見ながら、

自分と人を比べ、遅れ過ぎてないだろうかと心配しながら。

ゴールが何処かとも気にせず、

ゴールを目指すのではなく、人の背中を見て走ったのです。

でも突然、病が判明したり、入院を強いられる事になったら、

自分はそのマラソンからリタイヤさせられてしまうかのように、

1人ぼっちで違う道をゆっくり歩まないといけなくなるのです。

今までは、周りの早さに自分も紛れ、ゴールを考えなくても人の波にのり走れたのに。

1人にされると、一気に進む方向が分からない…

自分はどこに向かって歩んでいるんだろう。

今までの歩みは正しかったのだろうか。

何のために懸命に走っていたのだろう。

等という事に気付くのだと思います。

凄く不安だと思います。私が病院でこのような状態に出会う人はかなりの高齢。

今まで出来たことが出来なくなっていく事が多く感じる年齢の方たち。

…でも、良かったのではないか…とも思います。

まだ命が与えられていて、今からゴールを探す時間が与えられているから。

人生を終える前に、ゴールについて考える時間が与えられているのです。

Aさんは苦しく、孤独を感じていると思います。

でも、そんな孤独で苦しい思いを通り、私たちは主に出会う事が出来るのです。

私たちの人生のゴールは「神の御国」です。

御国を目指し歩むのです。

しかも、私たちの人生というマラソンは、人の背中を見て、人に紛れて走るのではなく、

周りの人のペースを見ながらそのペースに合わせて走るのではないのです。

聖霊さまが私たちのマラソンの伴走者となってくれるのです。

人の背中についていくのではなく、人に紛れるのではなく、

人と比べ歩むのではなく、

聖霊さまに導いてもらいながら歩む事が出来る人生。

本当に感謝です。

今日の御言葉にあるように、

パウロは「私は決勝点がどこかわからないような走り方をしていません」と言っています。

本当に若いうちから、主と共に人生を歩む事が出来るのは、幸いな人生だな…

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」というのは、良い人生を歩むためにです。

若い時から、伴走者が共に居るという歩み、

伴走者と共に人生のゴールを迎える事が出来るのは、

私たちにとって最高の生き方ではないでしょうか。

私たち、まだ時間が与えられています。

聖霊さまと共に歩む人生を選択しましょう!

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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