あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。
申命記7:2
モーセがイスラエルの民をエジプトから連れ出し、
リーダーがモーセからヨシュアに変わりました。
主はヨシュアに、「わたしはいつもあなたと共にいる」という約束と
カナン征服を命じられました。
また「カナンの部族と契約を交わしてはいけない。彼らを憐れんではならない」と言われました。
…ヨシュアは主を信頼し、主に従順し、イスラエルの勝利し続け、多くの部族に恐れられるようになりました。
…しかし、ヨシュアは大きな失敗をしてしまいます。
カナンの地に住む、ギブオン部族もイスラエル部族を恐れ、ヨシュアに嘘の平和協定をもちかけました。
ヨシュアは、ギブオン部族の話を聞き、彼らを憐れみ、協定を結んだのです。
ここから学ぶ事は、
上手く行っている時は「要注意」!!
ダビデも戦いに勝ち続け、民がダビデを尊敬している最中に、罪に陥ったのです。
願い通り、上手く進みつけると、自分が満足するだけでなく、
周りからも一目置かれ、自分が高められてしまいます。
その様な言葉が自分の耳に入って来ると、錯覚を起こしてしまうのです。
勝利する事が当たり前となり、自分は出来る、能力がある…とどこかで思い込んでしまうのです。
そこには主を崇める心もなく、慕う思いもない状態…
また、主がダメだとされている事。罪など。
あからさまに「これは罪だ!」と思える事柄。
主を悲しませる選択。
誘惑だと思う事柄など…
そのようなものを自分の身の近くに置いてはいけないのです。
人間は誘惑に負けてしまうものです。
その様な私たちが、誘惑を手の届く範囲に置き「主よ。私を誘惑から守って下さい」と祈るのは…
少しおかしい…
まず、罪だと、誘惑だと感じた時点で、そこから離れる。
このヨシュアの話も同じです。
主が「カナンの部族と契約を交わしてはいけない。彼らを憐れんではならない」と言われていたのであれば、
カナンの部族の話を聞くべきではなかったのです。
とりあえず…聞いてみて、そこから考えよう!と思う時点で、主が望まれている選択と反対の道へと歩み始めているのです。
また、成功が続くと、「主に聞く」という事を忘れてしまいます。
自分で判断できると、どこかで思ってしまっているのです。
「これは普段から、こなしてきている事だから…」
「これよりもっと難しい局面を乗り越えて来たから…」と。
成功体験は、私たちの人生で大切でもありますが、
自分を強めてしまい、主を遠ざけることにもなりえるのです。
祈る必要性を感じなくなってしまうのです。
主に祈らないという行動は、自分には答えがあり、自分が正しいのです。
自分に自信がなければ、それを知っている人に聞くという行動をとります。
そう考えると、
ヨシュアの失敗は、「主との約束を守らなかった」という以前に
「主に、尋ねなかった」という点だと思います。
主に祈らない…という選択は、
伺う必要がない。
自分で判断できる。
今までも同じ選択をしてきた。
このような思いから、主尋ねないという選択が始まるのです。
上手く行っている時…
一層、気を付けつけるべき…
今日も主を選ぶ一日となりますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」