あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
申命記8:2-3
今日の御言葉は、モーセが40年の荒野の旅を振り返りつつ民に語りかけている言葉。
初めて出エジプトの話を読んだ時、
「人間って凄く愚か…💦どれほど不信仰を繰り返せば、主が神であると気付くのだろう・・
民はどうして不信仰だと気付かず、この様な愚かな不信仰な行為を繰り返したんだろう・・」と思いました。
10もの災いがエジプトで起き、民は動揺したと思います。
その後、想像も出来なかった奴隷としての身分が解放されたのです。
そして故郷に帰れる事になったのです。
どれ程の喜びに満たされた事でしょうか。
辛い仕事を強いられることから解放され、鞭で打たれたり、不当な扱いをされなくなるのです。
まさに自由を手に入れる事が出来るのです。
しかもその道中、エジプト軍が追って来て、イスラエルの民は、九死に一生を得る体験をしました。
海が割れ、その地底を歩いたのです。
そして目の前で、自分たちを苦しめていたイスラエル軍が海に飲まれるのを見たのです。
大きな体験をしながらも、不平不満が続く荒野の旅でした。
そして、のどが渇いた。お腹が減った、肉を食べたい…と続くのです。
人間には水分が必要です。水を飲まないと脱水症状になり死んでしまうのです。
だから「喉が渇いた! 水が欲しい!」というのは必然的な要求です。
お腹が減ったという要求も同じです。
贅沢だと言われればそれまでですが、同じものばかりではなく違った物も食べたくなるでしょう…
私たちは、自分が神さまにする要求には、理由があると思っています。
そしてその理由は、正当性を持っていると思っています。
奴隷からの解放、これから自由に生活できる新しい土地が与えられている…
大きな恵みを頂きながらも、
私たちは、すぐに目の前にある問題に心を奪われるのです。
与えられているものに心を置き続ける事が出来ず、不自由さに「不満」を言うのです。
私たちと同じです。
私たちも「罪の赦し」と「永遠の命」を約束して下さっています。
これは、イスラエルの民がカナンの地を与えると言われた約束より、もっと大きな約束です。
しかし、私たちもイスラエルの民と同じで、
与えられている祝福に心を置き続ける事が出来ず、
目の前にある不自由さに、自分なりの正当性を持って「不満」を言い続けるのです。
私たちは、今、出エジプト中なのです。
イスラエルの民がエジプトで奴隷生活だったように、
私たちもこの世の価値観や悪の力の奴隷だったのです。
そしてモーセを通して、解放され新たな土地を目指したように、
私たちも、イエスキリストを通し、罪から解放され、新たな土地を目指している道中なのです。
私は… 自分なりの正当性を持って主に色々な事を主張してしまっています💦
「だって…主よ。これは絶対に必要でしょう?」
「こうなった方が、主も喜ばれることではないでしょうか?」
今日の御言葉は、モーセが40年の荒野の旅を振り返りつつ民に語りかけている言葉。
主は、「私たちの心の内に何があるのか」ご覧になられているのです。
主は私たちに何が必要であるかご存知です。
必要なのに与えられていないのは、主が私たちの心の内を見ておられるのです。
主にどのように祈るべきでしょうか。
自分の正当性を盾に、要求するのではなく、不満をいうのではなく…
もっと謙遜な思いで祈るべきではないか…と思いました。
私は過去を振り返って見て、
自分なりの正当性を持った要求を祈る時、
怒りが混じった祈り、不平不満を言い続けた祈り、脅迫に近い祈りだったように思います💦
私たちは荒野の旅を、どのように進んで行くべきか。
エジプトからカナンの地まで、直線距離で約300キロ。仮に1日に10キロ移動するとして1か月で到着できる距離だと言われています。
しかし民は、約束の地に入るまで約40年かかっています。
この愛する民たちが整えられるのに、要した時間なのです。
私たちは、聖書を通してこの事実を知っています。
私は遠回りをしたくない…
最短距離で歩みたいと願っています(笑)
私がする事は、主が下さる日々のマナを受けること。
マナは、日々降ってきました。
だから、私たちは外に出て、マナを自分で拾わないと、自分のお腹を満たす事が出来ないのです。
私たちの行動も必要だという事です。
主は、今日も私たちにマナを降らせて下さいます。
私たちは単に降って来るマナを眺めていてはいけないし、
他の人がマナを拾い、お腹を満たしている姿を見て、羨ましがってはいけないのです。
自分でマナを拾い、自分で口に入れないと自分のお腹は満たないのです。
そしてマナは与えられた日に自分の中に入れないといけない…
今日与えられた祝福の期限は今日なのです。
私たちに今日も与えられているマナは、聖書であり、祈りであり、賛美です。
今日もマナを頂きましょう!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」