「後悔」していませんか?【創世記44:16】

2024年

ユダが答えた。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」

創世記44:16

ヨセフの兄たちは初めてエジプトに穀物を買いに来た時、ヨセフに「間者」だと疑いをかけられ、
兄弟の内の一人、シメオンを残し、他の兄弟はカナンの地に帰り、もう一度ベニヤミンを連れエジプトに行かないと行けなくなった状況に追い込まれた時…
兄たちは「自分たちが売ったヨセフ」を思い出しました。
今ある苦しみは「ヨセフを売った事について罰を受けている」と感じたのです。
そして当時を振り返り、
「あれが我々に哀れみを請うた時、彼の心の苦しみを見ながら、我々は聞き入れなかった。それで我々はこんなに苦しみに会っているのだ。」
と話し合ったのです。
兄弟の皆が今ある状況は、自分たちがヨセフに侵した罪に対しての罰だと感じたのです。

そして、ベニヤミンが兄たちと一緒にエジプトに行った時、

ヨセフはベニヤミンの姿を見て隠れて涙をしました。

その後、ヨセフは兄たち食事を振る舞った後、

執事を通して、銀の杯をベニヤミンの袋に入れ兄たちを試みたのです。

そしてベニヤミンの袋から杯が発見され、
ヨセフは「杯を盗んだ者だけが私の奴隷となり、他のものは帰れ!」と言ったのです。
兄たちがベニヤミンを捨てて帰るかどうか試したのです。
今日の御言葉は、この時、4番目の兄ユダがヨセフに言った言葉です。
「神がしもべどもの咎をあばかれたのです」というセリフがあります。
兄たちの咎(とが)を暴かれた。
兄たちもベニヤミンも、銀も杯も盗んでいないのです。
しかし、ユダは自ら「自分たちの咎」の為に、この様な状況になっていると言ったのです。
「兄たちの咎」とは、「ヨセフを売った」という罪の事を指しているのです。
そしてユダは「ベニヤミンの代わりに自分をあなたの奴隷にしてください。
そして、ベニヤミンは他の兄たちと共に帰らせてください!
私はもう父の悲しむ顔を見たくないのです」と言ったのです。
ユダの言葉を聞いたヨセフは感動し、
溢れ出る感情を抑えきれなくなり、
自分はヨセフであるという事。
兄たちに「自分たちを責めないでください。これは全て神様のお導きなのです。」と言ったのです。
ヨセフは兄たちを試しました。
どうしてでしょうか。
ヨセフも、兄たちが穀物をスムーズに問題なく買える事が出来なく、父を巻き添えにして問題が起きている事に対して、
兄たちは、自分を売った事を思い出していると、ヨセフも分かっていました。
それなのに、何を試したのでしょうか。
兄たちが自分の事を思い出し、「後悔し、心を痛めている」のか「悔い改め」をしているのかを試したのです。
「後悔」と「悔い改め」は違うのです。
深く深く、何度も何度も「後悔」しても、「悔い改め」にはならないのです。
つまり、何度「後悔」しても、「悔い改め」なしに「赦し」を得れないのです。
同じように、
「願い」と「祈り」も違うのです。
いくら、何度も、何年も「願って」いても、「祈って」いるのとは違うのです。
私たちは、心で何度も「願い」
何度も ‟こうすれば良かった”と「後悔」ばかりを繰り返しているだけかもしれません…
主が求めておられるのは「後悔」ではなく「悔い改め」
「願い」ではなく「祈り」であるという事を、もう一度、この物語から感じました。
的外れな信仰生活を過ごす事がないようにしたい…
今日から、「悔い改め」と「祈り」に時間を大切にしよう…!

今日も、主と共に良き時間をお過ごしください!

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