私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
Ⅱコリント4:7
今日は、次男の誕生日。16歳です。
今日は次男へのメッセージとなります。
15歳の1年は、主に凄く触られた1年でした。
信仰的に劇的な1年。
15歳の1年は、
主の時が満ち、次男に働いて下さった様に感じる1年でした。
主を感じ、主が今も生きておられ働かれていると次男が実感できる1年でした。(ブログ「主を知っていくって素晴らしい」)
誕生日を前に、16歳はどんな1年にしたい?と聞くと
「ワーシップチームを作りたい!!」
将来的にも、兄と一緒に教会に携わる仕事も考えているようです。
誕生日を前に、次男の祝福の祈りをしていたら「土の器」という単語が何度も思い出されました。
今日の御言葉はパウロが書いたものです。
私たちは「土の器」である。
聖書のいう「土の器」とは、もろく、また壊れやすいものでありながら、測り知れない宝が隠されているのです。
「土の器」とは、私たちのことであり、教会も意味していると思います。
「宝」とは、主であり、福音、救い、罪の赦し、主の栄光、主の愛、主が与えて下さるもの…
主から与えられた喜びであったり、祝福、使命、賛美…
もしかしたら、「試練」や「悲しみ」も宝の1つだと言えると思います。
煌びやかな高価な器とは違い、土の器は、落としてしまえばすぐに粉々になり、
何か堅いものにぶつかればすぐにヒビが入ってしまいます。
私たち人間はもろく、弱く、傷つきやすい存在…
しかし、主はそのような弱い私たちを器として選んでくださったのです。
「土の器」は、製作者の手により一つ一つ造られたもの。
製作者の思いが込めら、製作者の息がかかったもの。
私たちの中に「宝」を収めて下さるのです。
世の中的に土の器には価値がなくても、私たちは、喜びと誇りを持てるのです。
私たちの人生の器に宝を収めて下さる主によって、私たちは素晴らしく意味のある人生を送る事が出来るのです。
次男。自分は弱く、もろい存在だと常に記憶して欲しいです。
また、楽しく喜ばしいことだけが「主が下さる宝」ではなく、
辛く悲しいことも「主の祝福」であり、「主が下さる宝」なのです。
このようなことも、主の宝として、次男の器に大切に収めれるキリスト者になって欲しいです。
今日から始まる16歳の1年間。
主からの祝福を沢山、自分の土の器に収める時間となりますように!!
「主よ。あの土地を私たち(LOVE BIBLE)に与えて下さい!」