11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理者だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
ヨハネ20:11-16
ブログを読んで下さっている方から質問を受けました。
「どうしたら主を感じられるか」
難しい質問ですよね。
どうしたら感じれるんだろう…と数日、黙想しました。
そして今日、復活したイエスさまに対してマリヤが「ラボニ(先生)」と呼んでいる場面を思い出しました。
この個所(ヨハネ20章)をもう一度読みました。
マリヤはこの時、イエスさまを2回見ています!
11節を見ると「イエスが立っておられるのを見た」と記録されています。
マリヤの目に、復活したイエスさまが映っています。
そしてイエスさまはマリヤに話しかけています。
「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」と。
しかしマリヤは、イエスさまを園の管理者だと思ったのです。
それから「マリヤ」と呼ばれて初めて、イエスさまだと気付いたのです。
マリヤは、イエスさまが大好きでした。
亡くなったイエスさまに香油を塗ろうと朝早くお墓に向かったのです。
この時、お墓の石が取り除かれているのを見たマリヤは、ペテロとヨハネにそれを伝えました。
そして2人はお墓に向かい、中を覗いたのです。
そして主が居られないのを確認し、復活されたとはまだ悟ることは出来ず、誰かがイエスさまを取っていったと考えました。
そして2人は自分の所に帰ったと記録されています。
しかし、マリヤは空のお墓に留まったのです。
どうしてでしょうか。
マリヤは、そこに主が居られないと目で確認しながらも、その場を離れる事が出来なかったのではないでしょうか。
マリヤの心は、主を離れる事が出来ない程、愛していたのではないでしょうか。
主に会いたい… どうして良いのか分からず、お墓でたたずんで泣いていたのです。
凄く凄くイエスさまに会いたい… なのに、マリヤはイエスさまに気付かなかったのです。
変ですよね。
イエスさまの声は十分に知っているだろうに。
マリヤの目は、イエスさまの姿をとらえたのに。
イエスさまが亡くなったというショックと、身体さえも無くしてしまったというショック。
マリヤの心は、虚しさと絶望に支配されていたのだと思います。
会いたい!!と思いながら、主を慕い求めながらも、目の前の現実に心が痛み、目に写る現実に心も霊も奪われたのです。
マリヤの心の目は、絶望感や死の闇によって閉ざされていたのです。
だから、主を実際に目にしても、気付かなかったのではないでしょうか。
イエスさまは、そんな悲しみに満ちたマリヤの心を知り、マリヤの名前を呼ばれたのです。
「マリヤ」
その声を聞き、マリヤは振り向き、イエスさまだったと気付くのです。
「どうしたら主を感じられるか」
この答えは、聖書のこの個所からも得れるように思います。
私たちは、見ていても見えないのです。
主が語りかけていても、聞こえていないのです。
目の前の現実に心が奪われ、支配されているのかもしれません。
深い悲しみの中に居る時、
苦しい現実を突きつけられた時、
孤独を感じる時、
どうする事も出来ない虚しさに襲われた時、
受け止められない問題が生じた時、
心が持って行かれないように、心を落ち着ける必要があるように思います。
言葉を変えて言えば、
どうしようもない状態になった時が、主に出会える時!
自分の力で解決できない問題にぶち当たった時が、主の御業を体験できる時!
心が傷付き、孤独で寂しさを感じる時が、主を感じる時!
だと思います。
自分の心を主に向け、今日も主を感じる1日となりますように!
「主よ。あの土地を私たち(LOVE BIBLE)に与えて下さい!」