主が与えるピンチの時の突破口【ルカ14:15】

2023年

何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。

ルカ14:15

今日はブログに何を書こうかな…と祈り考える中、

放蕩息子を思い出しました。

何度もメッセージで聞いて知っている話… もう一度読んで見ました。

放蕩息子の話は例え話です。

聖書に出てくる例え話は「神の国の奥儀を伝える為に」話されたものです。

ここに出てくる息子は、自分の家庭に、家族に愛着がなかったんだと思います。

愛着どころか、息子は自分の家族を必要とはしてなかった。

自分が必要と感じる部分は、父親の財産。受ける権利が自分にはあるからです。

そして、この息子は家族に愛着がないという事を、言動で示したのです。

言動で示せる家族関係だったのです。

普通であれば、父親が亡くなる前に、健康な状態の時に「自分の受ける財産を分けて欲しい」とは言えないからです。

この言動を通して、息子の非常識さ、非情さを感じます。

そして父親は、そのような非情な息子に対して、願いを叶えてあげるのです。

多くの親は叱ると思いますが…

父親の決断を見て、父親の息子への思いはどちらかだと思います。

さっさと財産を分け、親子の関係を清算する。

もしくは、息子を信じたのです。拘束したところで息子が家族に愛着が生じる訳でもなく、

全てを失ったとしても、この息子は私を忘れない。困った時には、絶対に私の元に帰って来る。

最後まで読むと、父親は息子を愛し、息子が自ら帰って来るのを信じ待っていたと分かります。

という事は、

父親は、自分が今までの人生の多くの時間を費やして手に入れたものを、半分捨てるという覚悟で息子を信じたのです。

自分の人生の半分を息子に分け与えたのです。

そして幾日も経たずに家を出て、湯水のようにお金を使いはたいたのです。

自分が大金を手にし、独立しようという計画なしに過ごしたという事です。

そしてその国に飢きんが起こり、食べる物に困り、豚の世話をする仕事をしながら、父親を思い出したのです。

この息子は、落ちる所まで落ちないと、父親を思い出せなかったのです。

豚の世話をしながら、惨めな思いになったと思います。

豚の餌を食べてお腹を満たしたい…と思うほど落ちぶれてしまったのです。

そして我に返ったのです。

自分は家族に、自分の環境に、不満しかなかったけれど、凄く恵まれた環境でいたんだと気付いたのです。

人生が転落するまで時間はかかりませんでした。

大金は湯水のように…驚くほど、あっという間にお金が無くなり、

「最悪!!」「こんなはずじゃなかったのに!!」と思った事でしょう。

途方に暮れ、不安になったと思います。

どうする事も出来ない状況に追い込まれ、自分を助けてくれる人も居なくなり、

孤独に陥ったのです。

そして彼は思い出しました。「父親のもとに帰ればいいのではないか?」と。

彼は人生独りぼっちになり、どうする事も出来なくなり、

主は助けられたのです。

「飢きん」を通して、彼へ道を開かれたのです。

飢きんが更に、彼を苦しめました。

ただでさえ苦しいのに、世の中自体、社会自体が苦しくなれば、

ますます、生きる事が難しくなるのです。

更に苦しく感じる事により、

息子は父親を思い出したのです。

彼の苦難の突破口は「苦しい飢きん」だったのです。

飢きんが彼を突き動かしたのです。

彼にとって飢きんは、道を開くものであり、助けであり、祝福への道だったのです。

息子が父親のもとに帰ると言う決断は、簡単ではなかったと思います。

自分のした行動が、非常識であり息子としてしてはいけない言動だったと、事を行い(財産を受け取り)全てを失ってから気付いたのですから。

その地で飢え死にするか、父親のもとに帰るかの二択しかなかったです。

彼は、二択しかない状況に追い込まれないと、回心できない人間だったのかもしれません。

そして息子は、二択の内「良い方」を選びました。

父親は、自分の人生の半分を取り上げた息子を、許すどころか、祝宴まであげたのです。

この話の息子は、私たちであり、父親は主です。

私たちがどの様な間違いをしても、

どの様な罪を犯しても、

どの様な生き方をしてきたとしても、

悔い改め主のもとに帰るならば、主は叱責をするのではなく、祝宴を上げて下さるのです。

落ちる所まで落ちる前に…

惨めで寂しく、孤独な時間を過ごす前に、片意地を張るのを辞め、早く主のもとに帰るという選択をしたいです。

飢きんという祝福を貰わず、日々、主のもとに帰りましょう!!

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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