何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
ルカ14:15
今日はブログに何を書こうかな…と祈り考える中、
放蕩息子を思い出しました。
何度もメッセージで聞いて知っている話… もう一度読んで見ました。
放蕩息子の話は例え話です。
聖書に出てくる例え話は「神の国の奥儀を伝える為に」話されたものです。
ここに出てくる息子は、自分の家庭に、家族に愛着がなかったんだと思います。
愛着どころか、息子は自分の家族を必要とはしてなかった。
自分が必要と感じる部分は、父親の財産。受ける権利が自分にはあるからです。
そして、この息子は家族に愛着がないという事を、言動で示したのです。
言動で示せる家族関係だったのです。
普通であれば、父親が亡くなる前に、健康な状態の時に「自分の受ける財産を分けて欲しい」とは言えないからです。
この言動を通して、息子の非常識さ、非情さを感じます。
そして父親は、そのような非情な息子に対して、願いを叶えてあげるのです。
多くの親は叱ると思いますが…
父親の決断を見て、父親の息子への思いはどちらかだと思います。
さっさと財産を分け、親子の関係を清算する。
もしくは、息子を信じたのです。拘束したところで息子が家族に愛着が生じる訳でもなく、
全てを失ったとしても、この息子は私を忘れない。困った時には、絶対に私の元に帰って来る。
最後まで読むと、父親は息子を愛し、息子が自ら帰って来るのを信じ待っていたと分かります。
という事は、
父親は、自分が今までの人生の多くの時間を費やして手に入れたものを、半分捨てるという覚悟で息子を信じたのです。
自分の人生の半分を息子に分け与えたのです。
そして幾日も経たずに家を出て、湯水のようにお金を使いはたいたのです。
自分が大金を手にし、独立しようという計画なしに過ごしたという事です。
そしてその国に飢きんが起こり、食べる物に困り、豚の世話をする仕事をしながら、父親を思い出したのです。
この息子は、落ちる所まで落ちないと、父親を思い出せなかったのです。
豚の世話をしながら、惨めな思いになったと思います。
豚の餌を食べてお腹を満たしたい…と思うほど落ちぶれてしまったのです。
そして我に返ったのです。
自分は家族に、自分の環境に、不満しかなかったけれど、凄く恵まれた環境でいたんだと気付いたのです。
人生が転落するまで時間はかかりませんでした。
大金は湯水のように…驚くほど、あっという間にお金が無くなり、
「最悪!!」「こんなはずじゃなかったのに!!」と思った事でしょう。
途方に暮れ、不安になったと思います。
どうする事も出来ない状況に追い込まれ、自分を助けてくれる人も居なくなり、
孤独に陥ったのです。
そして彼は思い出しました。「父親のもとに帰ればいいのではないか?」と。
彼は人生独りぼっちになり、どうする事も出来なくなり、
主は助けられたのです。
「飢きん」を通して、彼へ道を開かれたのです。
飢きんが更に、彼を苦しめました。
ただでさえ苦しいのに、世の中自体、社会自体が苦しくなれば、
ますます、生きる事が難しくなるのです。
更に苦しく感じる事により、
息子は父親を思い出したのです。
彼の苦難の突破口は「苦しい飢きん」だったのです。
飢きんが彼を突き動かしたのです。
彼にとって飢きんは、道を開くものであり、助けであり、祝福への道だったのです。
息子が父親のもとに帰ると言う決断は、簡単ではなかったと思います。
自分のした行動が、非常識であり息子としてしてはいけない言動だったと、事を行い(財産を受け取り)全てを失ってから気付いたのですから。
その地で飢え死にするか、父親のもとに帰るかの二択しかなかったです。
彼は、二択しかない状況に追い込まれないと、回心できない人間だったのかもしれません。
そして息子は、二択の内「良い方」を選びました。
父親は、自分の人生の半分を取り上げた息子を、許すどころか、祝宴まであげたのです。
この話の息子は、私たちであり、父親は主です。
私たちがどの様な間違いをしても、
どの様な罪を犯しても、
どの様な生き方をしてきたとしても、
悔い改め主のもとに帰るならば、主は叱責をするのではなく、祝宴を上げて下さるのです。
落ちる所まで落ちる前に…
惨めで寂しく、孤独な時間を過ごす前に、片意地を張るのを辞め、早く主のもとに帰るという選択をしたいです。
飢きんという祝福を貰わず、日々、主のもとに帰りましょう!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」