すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
マタイ26:49-54
私たちは、忘れてはならない事があります。
クリスチャンであってもなくても「剣」を持っているという事です。
誰かに傷付けられたら、相手を傷つけ返そうとする剣。
自分が不幸だ、差別だ、不公平だと感じた時に動かしたくなる剣。
欲しいものを手に入れたく思った時に使いたくなる剣。
思い通りに事が運ばない時に、イラっと抜きたくなる剣。
自分の利益のために振り回す剣。
自分が偉くのし上がる為の件。
気に入らない人に対して向けたくなる剣。
このような、「心の剣」が作動しようとする時が多くあります。
心の剣は、実際に行動に移させ、人を傷つける事があります。
また「心の剣」だけでなく、私たちは自分の身体に「剣として使えるもの」を持っています。
「舌」です。
ヤコブ3:6-8を見れば、舌は小さな器官だが、舌は火である。と書かれています。
小さな器官の1つに過ぎないけれど、身体全体を汚し、人生の車輪を焼く。と。
「心の剣」や「舌」は、自分を守ろうとするだけでなく、他人を攻撃してしまう事があるのです。
…今日の御言葉は、
ユダがイエスさまを銀貨30枚で売ってしまい、群衆がイエスさまを捕えようと集まって来た時の場面です。
この時、群衆は剣や棒を持って来ていたのです。
ただならぬ事が起きると誰もが察知したはずです。
「イエスと一緒にいた者の一人」とはペテロのことです。
ペテロはこの場面に立ち会う前に「私は一緒に死ななければならなかったとしても、私はあなたの事を知らないなどとは言いません」と告白した後の出来事です。
ペテロは、ただならぬ状況に主の身の危険を感じたのです。
主を守ろうと、本当に剣を取り大祭司のしもべの右の耳を切り落としたのです。
ペテロの大好きなイエスさまが捕らえられようとしている事を、黙って見過ごす事ができなく行動したのです。
人間的な行動だと思います。
現代の考え方だと、相手側が先に手を出した訳ではないので、正当防衛にはならない…かもしれませんが。
しかし当時、不当に捕らえられ、不当な扱いをされると分かっている状況で、
ペテロがとった行動は、間違えてるとは言いにくいと思います。
しかし主は、ペテロを咎められたのです。
こうならなければならないと書いてある聖書が成就する為だと。
これは私が通らなければならない道である。
これは私が担うべき杯。
この為に私はこの世に来た。
人間の目に正しく見えても、主の計画に反するという事があるのです。
自分が不当に扱われ、仕返しをしても法律的には問題が無い事があるかもしれません。
しかし、主の御心は必ずしも法律に沿っているとは限らないのです。
私たちの善悪の判断が、必ずしも正しいかどうかも分かりません。
私たちが、何か物事が上手くいかず、何とか打開しようと先手を打とうとする時があります。
あらゆる可能性を考え、動く時があります。
悪に対して戦う事もあります。
しかし、一番は自分の悟りに頼らず、立ち止まり、主の御心は何かと祈ることが大切なのです。
戦い、仕返し、善悪の判断は、主のものです。
私たちの領域ではないのです…
やられたら、やられっぱなしになれ。という意味ではないです。
心の剣、言葉(舌)の剣を、主に明け渡す…
難しいけれど、これが正解だと思います。
剣を置き、相手と向き合う…
主は言われます。
「剣をもとに納めなさい」と。
今日も、主の領域に自分が入らないように、主に依り頼む一日となりますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」