主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。
イザヤ34:16
先日、韓国人らしき家族が道で困っていました。
どう見ても旅行者。探している店が見つからないようでした。
声を掛けました。
道を教えてあげた後、「長く日本に住んでるんですか?」と聞かれ、
「あ…私は日本人です。夫が韓国人」と言うと、
「えーー韓国人だと思った!!」と言われました。
「どうして韓国語が出来るの?」と良く聞かれます。
私は「一生懸命、勉強したんです」という答えしかありません。
日本人にとって韓国語の発音は難しく、
日本語の発音は、言語学者によると112個。外来語音(ヴァとか)を入れて、約130個。
韓国語は…1万をゆうに超える発音の多さ💦
私も発音が難しく、少し長く話すと外国人だとバレてしまいます。
しかしよく「長く外国に住んでいる韓国人みたい」と言われていました。
発音は少し可笑しいけれど、韓国人みたいだと言う意味です。
久しぶりにその言葉を聞いて思い出した事があります。
私は、韓国に留学する前に3カ月ほど韓国語教室に通いました。
あの記号のようなアルファベットを読めるようにし、子どもがまず習得するであろう簡単な単語を覚えたぐらいのレベルで渡韓したのです。
なかなかハングルが文字に見えず…
これ…本当に習得できるのかな… 韓国語を勉強してから神学校。まず韓国語出来ないと話にならない…
と思いつつ、常に「神さま。どうか助けて下さい。韓国人のように韓国語が出来ますように」と何度も何度も祈りつつ勉強していました。
渡韓する日、飛行機の中で隣に韓国人のビジネスマンのような人が座っていました。
CAさんが話しかけられても気付かない様子。
私は思い切って、韓国語で「あのー聞かれてますけど…と」言いました。
すると流暢な日本語!
思わず「日本人なんですか??」と聞くと、自分は日本人で奥さんが韓国人。長く韓国に住んでいるとの事。
私は今から留学に行くと話しました。
すると、どこの語学学校? レベルテストは受けた?住む所は決まってる?と話をしてくれました。
そして、どのように韓国語を勉強すれば良いのか。
語学学校でどの席に座るのがいいのか。
時間をどの様に使えばいいのか。
細かくアドバイスをしてくれました。
その時は「へ~そうなんだ!ありがとうございます!」と思っただけですが。
今思えば、その時に教えてもらった事が凄く的を得ていて良かった。
留学のスタートを切るにあたって、主が私に与えて下さる為に、隣の席に準備して下さっていたんだと思います。
飛行機で出会った人のアドバイスに従い、韓国語の勉強を進める中、少しずつ話せるようになると
今まで気付かなかった事が見えてきました。
何度かソウルにある日本語礼拝をしている教会に行った事がありました。
そこには、
何十年も韓国に住んでいる日本人(結婚とかで)でも、凄く韓国語がたどたどしい人。
韓国に住んで5年、だけど全く韓国語ができない人もいました。
在日の人で5年前に韓国に来て始めて韓国語を習ったという人も居られ、私の耳には完璧な韓国人のような発音…
その時「そっか~ 同じように韓国で生活していても、語学って差がでるのか…」と思いつつ、礼拝後の交わりの時間を持ちました。
5-6人の交わりの中で、誰かが皆が知らない韓国語を「これ、知ってる?」という風に教えてくれました。
私はそれを知らず、「もう一回言って!」と言いメモを取りました。
ふと周りを見ると、
在日の人もメモをとり、メモを見ながら何度も繰り返し発音していました。
私が、この人凄く熱心だな~と思いながら見ていると、
私の視線に気付いて「何度も声に出して記憶しないと、使える韓国語にならないから…」と言われていました。
何十年も住んでる方は、「へ~」と言い、メモはせず、
全く話せない人は、その会話の部分は気に留めていない様子。
私はその3人の姿を見ながら「あ~この差が、語学の差になるのか…」と思いました。
この場面を思い出しました。
忘れてた一瞬の記憶…
どうして思い出したんだろう…と考え…
そうか、学ぶとはこういう事。
私たちは、聖書をこのように学ぶ必要があります。
礼拝で「今日の礼拝は恵まれた!」と思っても、1日2日と経てば、「恵まれた。良かった」という記憶はあるけれど、何がどう良かったのか…覚えていない事ってありますよね。
それは自分の信仰の糧にならない…
御言葉を熱心に聞き、聖書を読む事は、私たちの信仰の土台となります。
私たちが祝福された信仰生活を送っていくためにとても重要なこと。
外国語を話せたらいいな…と思っているだけで習得できないのと同じで、
習得するには、自分のものとするには、学びは不可欠なのです。
学びなしで信仰は成長しないようにも思います。
私たちは、主を信じながらもこの世で生きているのです。
この世の価値観、ものの見方、考え方は、主とは真逆な事が多いです。
その流れに流されず、信仰を守って生きて行く必要があるのです。
主の価値観、主の基準、主の言葉を自分に取り入れる必要があります。
日曜日の礼拝だけでなく、デボーションが必要です。
聞き流すだけでは、自分の身体や心を成長させる糧となるのは難しいように思います。
教会に何十年も通っていても、あまり聖書を知らない方もいらっしゃいます。
これは凄く勿体なく残念です。
今日は、忘れかけていた一瞬の記憶を通して、「聖書を学ぶ姿勢」を考えさせられました。
今日は、もう一度、初心に戻り、聖書を学ぶ時間を持とうと思いました。
今日も、主と共に歩み、主の語りかけに気付く1日をお過ごしください!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」