信仰から出ていないことは、みな罪です。
ローマ14:23b
先日、私は、時々聖書の話をしている人からこんな事を聞かれました。
「クリスチャンになって実際に何か変わった事って何?」
という質問です。
罪の赦し、永遠の命、主に依る喜び…などではなく…です。
多分、質問をした人は、主をまだ受け入れていないので、罪の赦しや永遠の命など、ピンとこないのかもしれません。
「一番、大きく変わった…得たものは、罪の赦し、永遠の命、主に依る喜び…だけど…それ以外で…」と考えて見て、
もし同じような質問を受けたら何と答えますか?
私は一瞬考えて、罪の赦しなどの ‟一番のもの” ではなく…
これは本当に私は変えられた部分だと思う事を思い出しました。
自己防衛をしなくなったこと。です。
主を信じる前は、
誰かに何か言われたらどうしよう。
受け入れられなかったらどうしよう。
バカにされたらどうしよう。
軽くあしらわれたらどうしよう。
…という心配がありました。
自分に自信がなかったし、傷つきたくなかったのです。
私は、家の外でバカにされたりイジメられた経験はないのですが、
小さい時から家庭の中で私はバカにされる存在でした。
それが私の価値観のように思ってしまっていたのです。
私は何をしても上手くできない。勉強もできない。要領も機転も利かない。
出来ない子という目で見られ、その様に扱われていました。
20代後半で韓国に行き、
日本人だという事で、凄くイジメられたし、差別されたし、バカにされました。(相手はそんな風に思ってないと思いますが)
どこに行ってもです。
デパートに行っても、タクシーに乗っても、郵便局、コンビニ、大学、道を歩いていても、私が日本人だと分かるっと攻撃されたのです。
教会の中でもです。
今のように日本人が韓国に留学するのが少なく、SNSもない時代…
来る日も来る日も攻撃が続くのです。初めて出会った人、偶然すれ違っただけの人にも言われるのです。
誰にも相談する事ができず、主の前で毎日泣くしか方法が無かったのです。
主は私を孤独の中に入れら、主とだけ向き合う時間を与えられました。3年半の間…
いくら祈っても環境は変わりません。
自分の心を変えてもらうしか方法がないのです。
私はこの訓練の中で、主は「私が持つ ‟自己防衛” は罪である」と示されました。
私は自分の心が傷付かないように、必死に自分を守ろうとするのです。
私の自己防衛は、傷つく事を恐れからでた行動です。
「私があなたを傷つけたか? 私はあなたを大切に思っている。私以外の言葉をどうして信じるんだ?」
「バカにされ差別されても、それがあなたの価値ではない。あなたの価値は私が決めるものである」
「あなたはどうして私の言葉ではなく嘘を信じるんだ?」
「どうして嘘を信じて、心を痛めるんだ?」
「私はあなたを価値のある者として創造した。それ以上の何が必要なんだ?」
「私の言葉を信じなさい。嘘に心を奪われてはいけない」
このような事を何度も何度も語られました。
主の言う「自己防衛は罪である」というのは、誰かに叩かれても蹴られても、相手の好き勝手にさせなさい…という意味ではないです。
自分の心を傷付かないように、必死に自分を守るという行動は、信仰から出た行動ではない。という意味です。
自分を守り、殻に閉じ心をガードをし生きて行くのは、主を信じる者の生き方ではないのです。
相手にどう思われるか、人からの判断や評価、評判などに心を奪われずに、主に任せるのです。
誰かが私の事を嫌っても、悪口を言ったとしても、ある事ない事言ったとしても…
それで本当に私の価値が決まるのではないのです。
私の本当の価値は、私を造られた主だけが決めれるのです
私はクリスチャンになって、自己防衛をしなくなった!と言うのが変わった点だと思います。
そう気付いて、とても感謝でした。
このような質問を受けてなかったら、自分が自己防衛しなくなったと気付かなかったかもしれない…
主に出会えて私は本当に幸せです!
今日も、主と共に時間を過ごし平安な1日をお過ごしください!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」