私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことをしっているのですから。
Ⅰコリント15:58
私のクリスチャンの友達が、
「私は伝道とかできない」と言います。
この言葉・・私は凄く分かります!
伝道って・・難しく感じます💦
何をどこから言えば良いのか。
「イエスさまはあなたの罪の為に死んで下さったのよ」と言えば、「何のこと・・?」となるでしょうし。
ましてや復活・・
実は私は「伝道しよう!!!」とは思えてないのです💦
と、友達に言うと「え・・??そうなの??」と驚かれるのですが。
でも、いつも伝道できたらいいな!!とは思っています。
伝道しよう!というより、自然に話したいとは思っています。
イエスさまの話をするのが本当に楽しいからです。
私はイエスさまと出会って、人生が凄く変わりました。
イエスさまに出会う前は、私は自分が今、生きているのか、死んでいるのか分からなかったのです。
世の中の多くの人は、毎日そのような思いを持って生きているんだろうな・・と思うと、昔の自分を思い出し苦しくなります。
友達が自分は伝道出来ない・・というのは、
自分には力不足。
クリスチャンだと証できる人格や品性を確立できていない。というのが理由。
「私がクリスチャンだといって、伝道にプラスにはならない」と言うのです。
伝道できない・・と思うのは分かりますが、
プラスにはならない・・というのには少し違うと思います。
だからと言って、私がプラスになってるか・・と聞かれたら、分からないのですが💦
主は一人一人に・・・私にしか出来ない働きを与えられていると思います。
以前、ブログにも書いたように思うのですが、
私は求道中に、自分の母教会ではない教会で聖書勉強を受けました。
学びを重ね終盤になった時、牧師先生に
「イエスさまを信じて見ませんか?」と聞かれ
「良く分かりません」と答えたら
「信じると告白しないと、聖霊さまも働たらかれない。信じると告白しないと、分からない事が多いし、経験出来ないこともある」
と言われ、「だから信じると言いなさい」と詰め寄られたのです・・💦
私は腹が立ってその場を去りました。
「これっておかしくない?? 信じなさい!って何? あの牧師先生、おかしくない??」と母親と母教会の先生に文句を言い「絶対にあの教会には行かない!」と言いました。
母親に言われたのか、母教会の先生に言われたのか忘れましたが、
「その先生とあなたが合わなかっただけ。あの先生を通して救われる人もいる。あの先生にしか救えない人がいるかもしれない。現に沢山の人があの先生を通して救われている。」
私は腹を立てながらも、すごく納得しました。
その時は分からないながらも納得できたのですが、今は本当にそう思います。
私とその先生は合わなかっただけ。
現にこの先生を通して沢山の人が救われています。
その人にしか出来ない、その人を通して救われる人が居るのです。
用いられる場所があるのです。
私たちは完全ではないけれど、そんな完全ではない私を通して主は働こうとされているのです。
自分には資格がない・・不足である・・と思う必要はないのです。
前にもブログに書いたのですが、私はこの証が好きです。
長く求道生活を送っていた男性が、主を信じる決心が出来た聖句があります。
「それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト(創世記6:15)」
というノアの箱舟の大きさの聖句なのです。
この男性、造船関係の方だったそうです。
船の大きさは、この大きさが一番安定した大きさだそうです。
それを、旧約時代に「この大きさで作りなさい」と言われた方がいると言うのを知り、「聖書は本物だ!」と感じたそうです。
この聖書の個所・・この部分を読んで、どれだけの人が聖書が本物で、主が居られると感じるでしょうか・・・!!
目の前の人が、どの様な言葉に心開くか、
どの様な言葉が心に響くかなんて・・
私たちには分からないのです。
働かれるのは、主の領域です。
私たちが何を話すか・・より、
主が望まれているのは、
私が主を愛し、
目の前の主を知らないでいる人を
「どれ程愛しているか」・・を
見られている様に思います。
自分に与えられた働きをするのみです!
自分の個性や思いを通して働かれる主・・
「私なんて」と考えるのではなく、
「私にしかできないこと」があるのです!!
主に期待し用いてもらいましょう!
自分から自分は不足だからと何もしないのは悲しいです。
今日も、主と共に歩み、目の前にいる方に主の愛を流せますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」