もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
ローマ14:8
久しぶりの友達から連絡がありました。
私はこの友達を通して、大きく学んだことがあります。
この友達を思い出す度に、学んだことも思い出し・・肝に銘じよう・・と思っています。
幼い時から本当に沢山の難しい中、生きて来た友達。
ずっと苦しい思いを持って生きて来た友達。
福音を知っているけれど、主を信じるという確信がないまま長い時間が過ぎています。
ギリギリまで耐えて、本当にどうしようもなくなった時、連絡が来ます。
そして長電話となるのです。
私は彼女の気持ちを理解しようと努力し、気持ちに寄り添って話を聞こうと思い、どうしたら良いのか一緒に親身に話を聞いていました。
何年も前のある日、彼女がこう言いました。
「私は、あなたの子どもとして生まれたかった。幼稚園、小学校、中学、高校・・ずっとあなたのもとで育ちたかった。神さまはどうして私をあなたの子どもとして生まれさせてくれなかったんだろう」
ドキッとしました。
そして初めて気付いたのです。
私が彼女の信仰の邪魔をしているという事を。
彼女と主の間で、私が仁王立ちして立っている姿が頭を過ぎりました。
いつも「どうして救われないんだろう。ずっと祈ってるのに。主よ、彼女の救いはまだですか?」と祈っていました。
原因は私だったのです。
彼女が心の苦しさを主に委ねる前に、私が主の前にたち、彼女の苦しさを慰め勇気づけ、対応してしまっていたのです。
彼女が苦しさを示したら、私の役割は、彼女がその苦しさを主の前に持って行くように導く事だけです。
しかし実際に私がしている事は、彼女の苦しさを、私が処理しようとしていたのです。
私は自分なりに、愛を持って親切心を持って、主に仕えるつもりで・・・努力していました。
しかしそれは見当違い・・
これが友達ではなく本当の親子であっても、してはいけない事をしていたのです。
私が彼女の気持ちを本当に理解する事なんて出来ないのに。
出来ない事をしようとし、してるように相手に感じさせていたのです。
彼女は心の問題を主の前に持って行って解決しないといけないのに。
私はそれを邪魔していたのです。
彼女の傷ついた思い、心、感情は、誰のものでもなく彼女だけのもの。
彼女の寂しさ、辛さ、苦しみ、孤独・・これらも彼女のもの。
彼女の課題は、彼女のものなのです。
反対に私の課題は私だけのもので、それを誰かに理解してもらおうと期待したり頼ってはいけないのです。
自分に課題(心の傷や環境の問題など)を通して主は働かれるのに・・
私も自分の課題を通して主を体験していったのに。
私たちがすることは、必要とされる時は寄り添い、とりなしの祈りをしていくだけです。
うちの次男も何かある度に「だから、実際にどうしたらいいの?」と聞きます。
私たちは、困った時、実際にどうしたらいいのか・・という答えが早く欲しいのです。
しかし仮に、次男と私が全く同じ問題を抱えたとしても、
主が与えて下さる問題に対する解決方法は、私と次男で違う可能性があります。
私が貰った解決方法が、次男の解決方法にならない可能性があるのです。
解決方法は、主から一人一人が貰うもの。
私の解決方法はわたしだけのもの。
主を愛します。主に仕えます。と心から告白しているつもりでも、見当違いな行動をしているかもしれません・・・
一つ一つを主に伺いながら歩んで行こう!と気付くきっかけとなった友達。
早く救われますように・・・今日もとりなしの祈りをします。
今日も、自分の課題を。目の前の人にではなく、主の前に持って行く一日となりますように!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」