また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
Ⅱテモテ3:15-16
高校1年の次男は、主日、大人の礼拝でベースの奉仕をして、昼から中高生の礼拝でエレキギターの奉仕をしています。
ベースの奉仕をするようになって、大人の礼拝にも出るようになりました。
そしてある日、
「中高生の礼拝では新約聖書の説教が多いけれど、この前、大人の礼拝では旧約聖書の箇所の説教だった。そもそも旧約聖書っているの?」と聞きました。
誰もが、一度は疑問に思う事だと思います。
旧約聖書、読みますか?
何となく新約聖書より少し読みにくく感じますよね。
私は洗礼を受けた頃、「今は新約の時代。律法の時代ではないから・・」と思っていました。
当時私は、旧約聖書の重要性がわかっていませんでした。
自分なりに、旧約聖書の重要性をまとめたいと思います。
旧約聖書には沢山の予言が書かれています。
新約聖書を読むと、旧約時代の預言が成就されていたと知ることができるのです。
新約聖書だけを読むと、ユダヤ人がどうしてメシヤを待っていたのかが理解できません。
どうしてエルサレムで生まれたナザレ人のイエスが救世主なのかも理解できません。
旧約聖書にある預言があるからこそ、イエスさまが神の子であると知ることが出来るのです。
またイエスさまの誕生の預言だけでなく、旧約聖書には他にも多くの予言が記録されているのです。そして多くの予言は、新約聖書の時代に成就されている記録が書かれています。(まだ成就されていない予言もあります)
また、創世記を読むことによって、人間も世界も、主が造られたという記録を知ることができます。
旧約聖書には、新約聖書には書かれていない非常に多くの、時代に左右されない「知恵」が書かれています。知恵の多くは、詩篇と箴言にあります。
そして、私にとって旧約聖書が必要な一番大きな理由は、
旧約聖書には、多くの人物が登場し民や指導者たちの生涯を俯瞰して見る事が出来ます。
国や時代が違っても、私たちも起こしうる同じような過ちを犯している人物が多く、人間の本質や不信仰さなどを感じ学ぶ事が出来ます。
聖書の時代に生きた人たちの生涯から、学ぶ事が沢山詰まっています。
不信仰とは反対に、自分の人生に何が起こっても主を信頼する事の大切さ、小さなことにも妥協しない信仰の姿勢は、後に大きな事で誠実でいれるという事を学べます。(ダニエル書)
罪は責任転換せず直ぐに悔い改める必要性(Iサムエル15章)
罪の怖さ(師士記13章~)
主に信頼し従うということ・・など。学ぶ事が多いです。
確かに旧約聖書の時代は「律法」を守るという事が重視されていました。
新約聖書に生きる私たちは、律法を守ると言う行いによって救われる訳ではありません。
しかし、律法を通して「神の性質」を知ることができます。
律法は、神さまが人々に与えたものであり、神さまの性質や価値観を示すものなのです。
律法が人間に与えられた目的の一つとして、
人々に神さまの「性格」や「正しい生き方」を示す指標として与えられました。
神さまの聖なる性質、正義、愛、公平などが律法に反映されているのです。
だから、旧約聖書を読み、律法を知るという事は大切なことなのです。
私たちに与えられている聖書は、旧約聖書だけを読むのではなく、新約聖書だけを読めば良いのではないのです。
旧約と新約、2つで1つの「聖書」なのです。
始めは、読みやすい新約聖書から読み始める方が良いと思います。
今日も、聖書を手に取り、主を知っていく1日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」