私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。
ホセア6:3
試練や苦難・・嫌ですよね~💦 私もです・・
イエスさまを信じた当時、
心の深い所から水が湧き出るかのように、「聖霊さまが与えられる喜び」ってこんなものなのか~!と凄く毎日が楽しく、生かされている事が嬉しく感じました。
今までに経験した事がない、心の底から溢れ出るような喜び・・
しかし、神の子とされ1年経ち、2年経ち、3年経ち・・次第にその溢れ出てくる喜びより、苦しさ辛さを感じる時が多くなるようになりました。
クリスチャンになると、この様な喜びに満たされた毎日が続くのかと思いきや、、、そうではなかったのです。
キリスト者としての葛藤や、あれ? 神さまが少し遠く感じる・・おかしいな・・と思う事がしばしば出てくるのです。
そして主が隠れたかのように遠く感じる事も経験します。
これは「マナが止まった」のです。
信仰のステージが上がったのです。
今までは、主を知らずに生きてきて、沢山傷ついた私を抱きかかえるように、包んで下さっていたのです。
生まれたての赤ちゃんのように、幼子のように、主が私の全てを喜びに変えて下さったのです。
傷ついた心も身体も、主が喜びに満たして下さり「マナ」を与え、霊的な回復をさせて下さったのです。
しかし主は、私たちがいつまでも幼子でいる事を望まれていません。
主の子どもとして成長する事を望まれています。
主から得た「祝福」を、沢山の人に流す役割を担う事を望まれています。
まるで雛鳥が巣から飛び立つかのように・・
祝福を流す役割を担う為には・・
私たちは、主をもっと深く経験し、主を証しする者へと成長する必要があるのです。
どのようにすれば、主を深く経験できるでしょうか。
どのようにすれば、信仰が成長するでしょうか。
・・多くの場合「試練」を通してです。
試練は、私たちが主に対する信頼を深める為に与えられます。
試練は、神さまがどういったお方なのか経験する事ができます。
試練は、私たちを正しい方向に導くものでもあります。
試練は、主の愛するが故の訓練なのです。
主の恵みの高嶺に引き上げる為に、マナを止められ、次のステージに上がるのです。
主を近くに感じられないのは、
主が扉を閉められたからではないのです。
「そろそろ、私の ‟祝福を流す担い手” となってくれないか?」という問いかけです。
沈黙のように感じる時間も試練の1つです。
「それでも、あなたは私を信じるか?」
「私の時を、信じ待つ事は出来るか?」と聞かれている様に感じます。
わたしは近くにいれば、神なのか。―主の御告げ―遠くにいれば、神ではないのか。 人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。―主の御告げ―天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主の御告げ―(エレミヤ23:23-24)
・・・試練には主の積極的な理由があるのです。
今日も、主を選択しましょう!
今日も、主と共に歩み、沈黙の渦中でいるならば、今まで頂いた約束を思い出す一日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」