神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3:16
イスラエル旅行行った事ありますか?
私は一度は行ってみたいと、ずっーと願っています。
長男が軍隊に入隊した時、除隊は5月で、大学への復学は9月。その間に家族でイスラエル旅行したいな~と言っていました。
除隊はしたものの、今年もやはり難しい・・と夫と話していました。
「イスラエル旅行」という単語を聞くと思い出す話があります。
随分前に韓国で聞いた話です。
韓国のある教会で、イスラエル旅行をしたそうです。
現地の韓国の宣教師にガイドを頼みました。
これが、ガリラヤ湖なのか・・ゲッセマネの園、死海、ユダヤ人がローマ人に追い詰められたマサダ・・
バスに乗りながら、色々な聖書に出てくる場所を回ったそうです。
そしてある時、エルサレム旧市街で見学をし終え「この道を歩いて行けばバスが待っている」と言われたそうです。
その日は少し暑かった上に、歩きにくい道を汗をかきながら歩いたそうです。
思ったより距離があり、自分たちのバスが見えた時、一同は「どうしてこんな所でバス乗らせるの?」
「(バスが)下で待ってたら良かったのに・・」「もう汗すごくかいてしまった」「足が痛い・・」「喉が渇いた」と皆が不満を口にしたそうです。
そして一通り不満を聞き終えた宣教師先生が、
「今、皆さんが歩いていた道・・どこか分かりますか?」
「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と言って、イエスさまが十字架を背負い歩いた道です。」
「ゴルゴダの丘に続く道を歩いてきたのです。」
「イエスさまは鞭打ちにされ、傷ついた身体で十字架を背負い歩かれました。しかし不満1つこぼされませんでした。」
「私は長くここでガイドをしています。来られた皆さんにゴルゴダの丘に続く道を歩いてもらっています。」
「今日ここに居られる方々だけでなく、今まで出会った全ての人がこの道を歩いた後、涼しいバスの中で水を飲みながら不平不満を口にされています。」
「これが私たちの姿であるという事を忘れないでください」と言われたそうです。
この話を聞いた時、ため息がでました。
絶対に私も口に出さなかったとしても不満を感じてるはず・・・
私は自分の貴重品しか持たず、両手が空いた状態で健康な身体で歩くだけです。
しかし罪のないイエスさまは、人間の罪を背負い傷ついた身体で歩かれたのです・・
イエスさまは罵声を浴びながら、何度も倒れながらも立ち上がり、「私たちの罪を許す為」に、ご自分の使命を全うする為、歩まれたのです。
「イスラエル旅行」の話をする度に、この話を思い出します。
そして、私は本当に十字架の意味を分かっているんだろうか・・と考えさせられます。
「イエスさまは私たちの罪の為に十字架に架かられた。だから私たちの罪は赦された」
これを、どこまで私は自分の事として理解できているんだろう。教理として理解しているんじゃないか・・と思います。
イエスさまは、私の自分勝手で利己主義的な・・私のどうする事も出来ない罪を許して下さったのです。
耐えがたい鞭打ちにあい、傷つき血を流しながら十字架を背負い、ゴルゴダの丘で私の罪を許す為に一言も不満を口にせず歩んで下さったのです。
このように私はイエスさまに許されておきながらも、
人を愛する事が出来ないのです。
人を許す事が出来ないのです。
許せない人に対して、ずっと許せない思いを持ち続けているのです。
自分がどうしても愛せない人に対して、ずっとその気持ちを持ち続けているのです。
それだけでなく私は、‟理由をつけて” 許せない心、愛せない心を、あたかもそのような心が正当かのように信じているのです。
私は・・クリスチャンだと言えるのだろうか。
偽善という仮面を被っているだけのクリスチャンではないだろうか。
本当に十字架の意味を深く理解しているならば、私の人生は変わるしかないはず・・
180°自分の人生が変わり、今までと違った生き方が出来るはず・・・
‟理由をもって” 私は自分に騙されているのかもしれません。
「だって、あの人は私にあんなにひどい事をしたんだよ」
「あの人は私を裏切ったんだよ」
「愛されなくて当然な人だ」
「信用されなくても仕方がない人だ」
「あの人は仕方がない」
「だって・・・」
このような ‟理由をもって” 自分が人を許せない思い、愛せない思いを正当化しているかもしれません。
仕方がない・・と自分で自分を騙しているのです。
今日は、自分の信仰についてもう一度祈り、見つめ直す時間を持ちたいです。
今日も、主の愛を感じる一日をお過ごしください!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」