あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
詩篇55:22
ここ数日、「主に委ねる」という言葉の意味を黙想していました。
そんな中、電車に乗っている時に、前に立っていた人が「金八先生も ‟裸になった人間はそれだけ強くなれるんだ” って言ってたよね(笑)」という会話を耳にしました。
それまで彼女たちがどの様な話をしていたのかは分からないのですが、私は心の中で「えーーなるほど・・!」と思い、その会話に加わりたくなりました・・(話しかけてません・・)
ここでいう「裸になる」とは、
ありのままの自分の姿を認める・・
無力で自力で何も解決できないという自分を認める・・と言う意味だと思います。
そうですよね。
自分のありのままの無力さを認め、自分の限界を知り、主に助けを求める時、私たちはやっと「主にこの問題を委ねます」と祈る事が多いと思います。
今日の御言葉の「重荷を主に委ねよ」という言葉。
ダビデが王になる前に言った言葉です。
この時、ダビデはサウル王に命を狙われ、荒野に逃げている時に書いたものだと言われてます。
ダビデはサウル王の兵に狙われ、逃げ続けたのです。自分がサウル王を殺せる瞬間が与えられても「主が選ばれた者を自分が殺してはならない」と言い、
自分に降りかかっている問題の根源となるサウルを、自分の手で排除しなかったのです。
私がダビデなら・・・‟神さま、感謝します!”と言ってサウル王を、ブサッと刺していたんだろうなと思います💦
主が下さったチャンス。
主が開いて下さった道。
主が下さった答え。
だと解釈して、自分の手でサウルを排除し、‟感謝の心” で問題解決へと歩んだんだろうな・・と思います。
ダビデが言う「委ねる」・・って何だろう。
「委ねる」と言う言葉。辞書を見ると、
「物事の処理・決定・判断などのすべてを相手に全面的によりかかるような形でやってもらう意味。‟任せる”よりも、相手にすべてを託してしまうという意味合いが強い。」
簡単に言うと「一切を他の人に任せる」という事。
今日の御言葉を見ると「あなたの重荷を主に委ねよ」とあります。
重荷・・自分にとっての問題。自分の人生の全ての問題を指すと思います。
私は、車を運転出来るのですが、空間的な能力が素晴らしく欠けているのか・・
家からA地点に行く事が出来ます。家からB地点にも行けます。しかし突然、AからBに行って!と言われると、
一旦、家の方向に帰ってB地点に向かおうとします・・💦(情けない・・)
頭に地図を描けないのです。
運転中に夫に説明を受けます。「このまま走ったら、〇〇の道に出るからそれを左に行ったら、〇〇があるでしょ。それを右・・・」とかと言われると
ますます分からなくなり・・「その時に言って・・💦」となります。
結局は「次の信号左」「このまま真っすぐ」「もうすぐ右」とかその時に指示を得ます。
多分、委ねるってこんな感じですよね。
私が運転をし(自分の人生を歩み)、ゴール(天国)を目指す。
それまでの道を主にエスコートしてもらう。
選ぶ道によっては、道が混んでいたり空いていたり・・見える景色もちがう。出会う車も違う。
「主に委ねる」というのも色々あると思います。
私の運転のように、A地点までは自分の力で行き、途中道が分からなくなり、突如としてB地点まで助手席に道案内役の人に座ってもらい、その人に委ねて人生を歩む事もできます。
しかし、多分・・・一番主が望まれている「委ねる」とは・・
私が運転席を自ら降り、私が自ら助手席に座り、主に運転席に座ってもらう。
このような人生だと思います。
私たちは最悪な状況に追い込まれた時に、主に委ねようかどうか迷うのです。
どうして迷うのでしょうか。
主に委ねますと祈って、どのような道を歩まされるんだろうか・・と頭を過ぎるのです。
絶体絶命でありながらも、まだ自力で何とかしようとしたり、出来るだけ自分が望む結果を手に入れようと踏ん張ってしまうのです。
裸になりきれていないのです。
プライドを手放す事が出来ていないのかもしれません。
「主に委ねる」とは、自分の人生の何かを「諦めたり」、「放棄をする」という意味ではないのです。
人生においてエスコートをお願いするという意味です。
どの道を通ってゴールに向かうか任せるという意味です。
ダビデは、運転席に主に座って頂き、苦難の中を歩んだんだろうな・・と思いました。
困った時だけでなく、自分の人生と言う道の運転を主に委ねれるようになりたいです。
今日も、主と共に歩む一日をお過ごしください!!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」