こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
ヨハネ21:9
今日の聖書の箇所は、
復活したイエスさまが、ガリラヤ湖で魚を捕っているペテロに会いに行かれた場面です。
イエスさまが十字架に架かる前に、ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と命を捨てる覚悟が出来ていると言っていました。
しかし、兵士と、祭司長、パリサイ人たちがイエスさまを捕まえに来た時、ペテロを含む弟子たちはみな、イエスさまを見捨て逃げてしまいました。
ペテロはイエスさまが言われた通り、鶏が鳴く前に3度、イエスさまを知らないと言ってしまいました。
ペテロはどんなに自分に落胆したことでしょう。
ペテロは熱い信仰の持ち主です。本当に命を捨てる覚悟をして、イエスさまに信仰告白をしたと思います。
しかし、目の前で命の危機を感じた時、人間の弱さが出てしまい、逃げ出したのです。
そんなペテロを思い、イエスさまからペテロを許し癒そうと会いに来てくれたのです。
そしてイエスさまは、ペテロに魚とパンを準備されていたのです。
ここに出てくる「炭火」・・ギリシャ語で「ảvθракiàv(アンドロキア)」と言うそうです。
このアンドロキアと言う単語、4つの福音書で2回しか使われていないそうです。
今日の御言葉のペテロたちの為に魚とパンを焼いてた「炭火」。
そして2つ目は、ヨハネ18:18の
「寒かったので、しもべたちや役人たちは、‟炭火” をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。」
イエスさまが捕らえられた時の場面です。
ペテロは遠くからイエスさまの後を付けながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちと一緒にに火にあたって、イエスさまを見届けていたのです。
ペテロがその時あたっていた火が「アンドロキア」なのです。
ペテロには、「たとえ皆が主を裏切っても私は・・」という思いがありました。
しかし、実際にはそのように出来ず逃げてしまったのです。そして「イエスを殺せ」という群衆に紛れ、イエスさまを見届けていたのです。
この時、ペテロは寒くて火にあたっていた訳ではなりません。
自分の身を案じ、群衆に紛れる為に火にあたっていたのです。
しかし、ペテロの心と行動が真逆になっています。
主を思う心を持っていながらも、自分の立ち位置はイエスさまに反対する立場に立ち、事の流れを見ているのです。
ペテロは自分がしている事が分かっていないのです。
自分が彷徨っていると気付いていないのです。
そして、「あなたはあの人の弟子ではないか?」と聞かれた時、全否定するのです。
この時、ペテロは自分に出来る最大限の事をする為に、炭火にあたり群衆に紛れていたのです。
ここで、ペテロが炭火にあたると言う行動は、「肉の力(自分の力)」でイエスさまの為に生きようと努力していたという事が表わされています。
普段であれば、誰よりも先にイエスさまの元に走って行くタイプのペテロが・・・
イエスさまが復活した姿を見ても、自分からイエスさまを以前のように慕う事が出来なかったのです。
ペテロがイエスさまに初めて出会った時「直ぐに網を捨ててイエスに従った(マルコ1:18)」とありました。
全てを捨てて主に従うと決心したのに、今ペテロが取っている行動は、‟イエスさまに召される前の姿”の行動なのです。
この時も、真逆な行動をしてしまっているのです。
そして夜通し魚を捕りに行っても何も釣れなかったとあります。
以前の生活も上手くいかなかったのです。
肉の思いで主に従っても、肉の思いで以前の自分の姿に戻っても・・・
何をしても上手くいかなかったという意味です。
イエスさまは、3度主を知らないと言ってしまったペテロに、同じ回数「私を愛するか」と尋ねられ、知らないと言ってしまったペテロの心を癒されたのです。
そして、信仰を持ちながらも炭火にあたり、どうする事も出来なく彷徨っていたペテロに対して、主が同じ炭火を用意し、ペテロの彷徨っている心に働かれたのだと思います。
ペテロに、自分の信仰が肉の力であったと教えたのだと思います。
私も「主を信じます」と告白しながらも、自分の心とは違った行動をとっている可能性が大いにあると思いました。
今日は、肉の思いの信仰から離れ、聖霊に満たされた信仰を持てるように祈ります。
聖霊に満たされた信仰を求める一日をお過ごしください!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」