どうして十字架を負いたくないのか【イザヤ53:4-6】

2023年

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

イザヤ53:4-6

私たちは聖書にある

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(マタイ16:24)」

という御言葉を知っています。

「自分の十字架を負い・・・」と言う言葉。

主が一人一人に、負って欲しい十字架があるのです。

しかし、私たちは主が自分に十字架を差し出した時、その十字架を受け取らず、過ぎ去るのをひたすら待ってしまう事があります。

どうして十字架を受け取る事を怖がるのでしょうか。

どうして十字架を避けようとするのでしょうか。

受け取った方が良いという事は、何となく分かっていても怖いのです。

しかし、これは間違ったイメージを持っているからだと思います。

十字架のイメージ・・イエスさまの十字架の死です。

イエスさまが負われた鞭打ちは、単なる鞭打ちではなく、鞭の先に鋭利なものを付けた鞭で肉をえぐり取る打ち方をしました。

普通の人間であれば、この39回の鞭打ちを負えるまでにショック死です。

鞭打ちの後に手に釘を打たれ、十字架に架かったのです。

わき腹を槍で突かれ、水と血が同時に出たと書かれています。

私たちの十字架のイメージが、イエスさまが架かられた十字架だからです。

主に全てを明け渡してしまったら、自分の人生はどうなるんだろう。

辛く苦しい人生を歩まなければならないのではないか。

イエスさまが十字架で苦しまれたように、私も犠牲を払わなければならないのではないか。

人生が狂ったらどうしよう。

人生が苦しく辛い人生になったらどうしよう。

主の十字架を背負ったら、貧しく生きて行かないといけないのではないか。

何となく、十字架を背負うという事が、

イエスさまの十字架。

弟子たちのような人生。

という負のイメージがあり、恐れを感じてしまいます。

イエスさまは、十字架の上で人類の最高刑を受けられたのです。罪と死に打ち勝たれたのです。

罪と死。

これは人間が感じる問題の根本的原因です。

病気になるという問題は、「死んだらどうしよう」という恐れから来るものです。

職を失う、貧しくなるという問題も、「これから生きていけなくなる」という「死」からくる恐れを感じるから問題だと感じるのです。

人間関係の問題、「寂しい人生になる」という孤独への恐れ。孤独な人生、孤独な死をイメージさせるのです。

沢山の罪は、いつか裁かれるという恐れがあります。

人間が感じる殆どの問題の根本的な根の部分は「罪」と「死」なのです。

「罪」と「死」は、もう2000年前にイエスさまが十字架で解決して下さったのです。

イエスさまが十字架で、苦しまれたから・・・私たちは平安の内に人生を歩めるのです。

主が私たちに与えようとしている十字架とは、イエスさまが負われた十字架ではないのです。

イエスさまが負われた十字架は、イエスさま以外には負えないのです。

イエスさまの十字架は、「死」へ向かう十字架でした。

主が私たちに与えたいと思われている十字架は、「主」へと向かうものなのです。

主を知り、主がどういったお方なのか。主のこの偉大な十字架の救いを、単なる情報としてではなく、実感して欲しいのです。

主は、私たちの人生を自分の力で頑張り、耐えて生きて行くのではなく、主に委ねながら、主と共に歩んで欲しいのです。

今も生きておられる主が、私たちの人生を導いていると実感して欲しいのです。

この世で受けた傷を、主の前に明け渡し、主の癒しを受けて生きて欲しいのです。

主が私たちに渡そうとしている十字架は、私たちが持つ暗く恐ろしいイメージの十字架ではないのです。

罪の赦しと永遠の命・・・希望に満ちた主へ続く十字架なのです。

自分で頑張る、自分の力で耐える・・という事を手放し、主に明け渡すのです。

「希望する学校へ行けるかどうか」「希望する就職ができるかどうか」「子どもが与えられるかどうか」「病が癒されるかどうか」「人間関係が上手くいくかどうか」「目の前の問題が解決するかどうか」「結婚できるかどうか」・・

全ての問題を「絶対に叶えて下さい!」と祈るではなく、「主に委ねます」という祈りです。これが主が与えられる十字架の1つです。

自分の人生を自分の手でしっかり握るのではなく、主に主導権を持ってもらうのです。

「病が癒されるかどうか、主に委ねます。この病を通して主が語ろうとしている事を教えて下さい」という祈り・・・

このような祈りを日々、出来るようになりたいです。

今日も、主に一つ一つ明け渡す事が出来ますように!

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