祝福を逃さない為に【詩篇51:10-12】

2023年

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

詩篇51:10-12

今日の御言葉・・・

ダビデが自分の罪を示され、悔い改めた言葉です。(詩編51篇)

ダビデは大きな罪を犯してしまいました。

誘惑に負けてしまい、夫がある女性を身ごもらせてしまったのです。そしてその事実を隠す為に罪に罪を重ねました。夫のウリヤを殺させたのです。

しかし、当時ダビデはイスラエルの王でした。

イスラエルの民にとって、王というのは神だったのです。

イスラエルの王の歴史をみると、暴君が多いです。罪を犯し、罪を主に示されても背を向け、一層罪を犯してしまうのです。

主の祝福を、自から手放してしまう王が多くいました。

与えられた権力や地位が、王の心を謙遜とは程遠いもので満たしたのです。

権力があればある程、謙遜になるのは難しいのです。

当時のイスラエルの王であれば、ダビデの罪は私たちが感じるほどの大きな罪ではないと思います。

しかし、主が預言者ナタンを送り、例話を通してダビデの罪に触れます。

ダビデは自分の話だと気付かず、「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」と言うのです。

主はナタンを通して、ダビデの罪を酷く咎められました。

ダビデは王でありながら、主の前にひざまづき悔い改めたのです。

ダビデは王でありながら謙遜になりました。

その結果、バテ・シェバとの子どもは死んでしまいましたが、ダビデの祝福がそれ以上、取られる事はありませんでした。

ダビデは、自分の権力を横に置き、周りの人が自分の姿をどの様に思うか・・と言うような事に重きを置かず、自ら小さい者になる事を選んだのです。

周りの人にとって、無力な王、弱々しい王の姿となることを選んだのです。

本来ならば、人は自分の罪は隠したいものです。

しかしダビデは、自分の無力な姿、罪深い姿を、詩篇に残しているのです。

自分の弱さ、罪深さ、無力さ・・一般人でも隠したいものです。それを王であるダビデは、後世にまで残しているのです・・・💦

多くの人の常識や価値観とは違う選択をしたのです。

 

常識や良心、善と悪、公平、公正、正義、勇気、忍耐、努力、親切、思いやり、謙虚など・・

私たちは生まれた時から、これらの事を学び、身に付け成長していきます。

この社会的に共通する思考や基準を持つ必要があるからです。

これらを教育せず、成長したら・・世の中の秩序や安全、平和などが乱れるからです。

ですから、私たちは子どもの時から「人に迷惑をかけてはいけない」という事を何度も何度も教えられ、また子どもにも教えています。

道徳的な教育は必要なのです。

しかし、クリスチャンが忘れてはいけない事は、

道徳的、道義的に正しいと多くの人が同意する思考であったとしても、

それは主の前で本当に正しいとされない事があるのです。

私たちの目に正しいとされている事が、霊的にも正しいと言えない可能性が大いにあるのです。

霊的にとは、聖霊さまの働きを求め、導きや祝福を求める状態です。

霊的な導きや祝福を求める場合、必ず主は私たちが謙遜になる事を望まれます。

主が望まれる謙遜は、私たちが知っている謙遜より、もっともっと低くなる事です。

道徳的、道義的に正しい事を行っていれば、この世界では ”良い人” ”正しい人” という評価を得るかもしれません。

しかし、主が望まれる ”正しい人”とは、私たちと基準が違うという事を、心に留める必要があるようです。

謙遜を選べる者になりたいです。

人の目を気にせず、主の前に正しい者となれるように・・

主の祝福を自ら手放す事がないように・・

いつも主が望まれている事に目を向けれるように・・

今日は、主の望まれているものが何か、導かれるように祈ります。

今日も、主の中で恵み多い一日をお過ごしください!

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