そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
Ⅱ列王記5:13
今日の御言葉は、ナアマン将軍の部下のセリフです。
ナアマン将軍が”ツァラアト” という ”らい病” にかかりました。
そしてそのいやしを受ける為に、部下や馬と戦車を持って、敵国イスラエルに行くのです。
しかし、ナアマン将軍が思い描いていた対応を取ってもらえなかったのです。
アラムからイスラエルまで、わざわざエリシャに会うために、長旅をして来たのです。
預言者エリシャは、ナアマン将軍が来ることを知っていました。
しかし顔も見せずに、エリシャは使いを通して、言付けをしただけなのです。
しかも、自国の川より汚れた川で7回身体を洗えと言う内容・・
不治の病である ”らい病” が、驚く程簡単な方法で癒しを受けれるのです!
本来であれば、喜び踊るような祝福です!
しかし、ナアマンは提示されたいやしの方法を、感謝する事もなく、喜んで従う事もなく、
激怒したのです。帰路に向かったのです。
その理由として、
「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で、洗って、私がきよくなれないのだろうか。」
と言っています。
ナアマン将軍のプライドが、祝福を拒否させたのです。
そのナアマン将軍に対して、部下が言った言葉が今日の御言葉です。
ナアマンが言い放った理由に対して、部下の言葉は少し合っていません。
部下は、人間の本質が分かっていたのです。
この不治の病に対して、もっと無理難題な課題(例えば、あの山を7度登れとか)を提示してくれた方が、やってやろう・・という気持ちが沸くのです。
この不治の病に対して、川で体を洗うだけ・・というのは納得がいかないのです。
そんな簡単なことで治るはずがないのです。
難しい病には、難しい課題が必要だと感じているのです。
どうして難しい課題の方が良いのでしょうか。
難しい課題を提示され、それを歯を食いしばりクリアすれば、私たちは達成感を得れるからです。
この達成感に何が含まれているでしょうか。
「自分は頑張った!」「やってのけた!」という思いです。
主に依り頼むという建前をもって、自分の達成感も求めているのです。
主に癒してもらう・・と言いながら、自分の努力を織り交ぜたいのです。
私たちにも、この様な思いがあるように思います。
主よ、癒して下さい! 導いて下さい! 助けて下さい! と祈りながら、自分で方法を模索するのです。
人間には、どこまでも自分の力で頑張ろうとする思考があるように思います。
だからこそ、主は自分の力で頑張ろうとする思いを砕く為に、主はワザとナアマンの心を一度頑なにされたのかもしれません。
主のいやしは、あなたの努力によるものではない。
一方的な主の恵みによるものだと、ナアマンが知る為。
この聖書を読む私たちも、
主に依り頼むと言いながら自分の力で頑張ろうとしているという事を知る為に、ナアマン将軍の話を記録されたのではないか・・と思いました。
主に依り頼むと言いながら、二心を持っていないか。
完全に主に依り頼めているのか、自分の心を探る必要があるように思いました。
私は自分が主に依り頼む・・・フリをしている様に思いました。
口先だけの「全てを主に依り頼みます」・・💦
主は、私たちの心の根底を見られます。
自分が気付いていない根底にある思い・・
自分自身は主を少しずつ経験し、信仰が成長してきた!と感じても、
主の目に写る私の姿は・・どうなんでしょうか。
自分の心の根底にある思いに目を向けたいです。
「主に依り頼みます」と告白しながら、主を悲しい思いにさせている可能性があります。
自分のプライドが、祝福を拒否し、祝福に対して「激怒」してる可能性もあるのです。
今日も、主に喜ばれる姿に少しでも近づけるよう、祈り、聖書を読み御言葉を蓄えたいです。
今日も、主と共に歩む一日をお過ごしください!