究極的な願いに答える主【使徒3:3-8】

2023年

彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。

ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。

男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」

彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

おとり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。

使徒3:3-8

御心にかなう願い・・・

私たちは「その主の御心が分からないから、祈りに難しさを覚えている」・・と思いませんか。

「主の御心」って何なんでしょう。

御心が分かれば、それに沿って祈れるのに・・そんな事をよく考えました。

「主の御心」って何だろう?と改めて考えるようになり・・これについて書くのは不可能です。

私たちの思考や発想を超えた主の考えや思い。

その方の「心」「思い」と書くなんて・・💦

だから、今、感じる部分だけ、本当に僅かな部分だけを記録したいです。

 

私たちは、主に祈ります。節なる願いを持って。

でも、なかなか祈りが聞かれない事が多いです。

御言葉には「御心にかなう願いは聞かれる」と書かれています。(Ⅰヨハネ5:14)

だから主の御心を教えて下さいと祈るのです。

御心を知りたい!と思いつつも、疑問もあります。

御心を知れば、私たちはその通り素直に聞き従えるのでしょうか?

私を含め、多くの人の祈りは(多分)結末まで含めて祈っています。

「〇〇となりますように」

「〇〇しますように」

「〇〇なるように導いて下さい」

私たちは多分・・御心を教えて下さい!と祈りつつ、自分のシナリオがあるのです。自分で勝手に決めた主の御心を持ってしまっているのです。

「これが御心のはず」

「・・これが御心であって欲しい」

「誰が考えても、こうなる事は良い事だから・・これは御心だ」

御心・・と考える時に、私は聖書の2つの話を思い出します。

一つ目はザカリヤとエリザベツです。エリザベツは不妊だったと記録されています。2人は子どもを望みました。

ある日、ザカリヤに天使ガブリエルが現われ「エリザベツが男の子を生む」と告げたのです。

ザカリヤは信じられなかったのです。

ずっと願っていたにも関わらず、”祈りが聞かれるよ!”と聞いた時に、ザカリヤは感謝して喜んだのではなく、口から発した言葉は「私たちは年寄りです」でした。

ザカリヤたちの子を求める祈りは御心にかなっていたのです。

しかし、人間的には無理だろうと諦め、途中で祈りを辞めてしまっていたのです。

ここで感じたのは、「信仰」と「願い」は違うという事です。(ザカリヤが祈りではなく願いだったという意味ではないです)

一生懸命に願い求めていても、それは「願望」であり「信仰」ではないのです。

信仰がない祈りは、中途半端な祈りになるのです。

”祈りがきかれるよ!”と言われ、大喜びするのではなく、”どうして?”というどちらかと言えば、否定する様な反応になってしまうのです。

祈りながらも、「聞かれないかもしれない」という思いを持ってしまっているのです。

そして、直ぐに祈りが聞かれないと、祈るのを辞めてしまうのです。

祈りを辞めてしまう、諦めてしまうと・・

「祈っても与えれない」と主に対して疑心暗鬼が生じ、不信仰へとなびいてしまうのです。

信じて求め続けるという事が大切だと思います。

 

もう1つは、ペテロとヨハネが、生まれつき足のなえた人を癒した話です。

足の悪い人が切に求めたものは、金銭的な施しです。

彼が切に、心から求めたのは「今日の施し」「今日の食事」だったのです。

私たちが日々、主に求めているのも、この足の悪い人と同じかもしれません。

目の前にある問題、早く解決したい問題、今困っている事、今降りかかっている不便・・・人間的な判断により・・

今、私が必要としているものを求めるのです。

この足の悪い人のように、足が癒されるのは、流石に不可能だと勝手に判断してしまうのです。

生まれた時からだったし・・生まれた時から両親も祈っていたけど、癒されなかったし・・足が癒されるのは無理だと望む事を忘れたのです。

しかし彼にとって根本的な問題、生まれつき足が悪いという事で、自分で働く事が出来なかったのです。

だから生きて行く為に必要な食べ物の施しを求めていたのです。

「今日、生きて行く為に必要な施し」が切なる願いとなってしまったのです。

しかし主が与えられたのは、身体の癒しをされたのです。

主は全てを知っておられるのです。

彼にとって必要なのは、「今日の食事」ではなく、彼が持っている「究極的な願い」なのです。

私たちも、目先のものばかりに心も目も奪われ、それらを求めてしまっている可能性が高いと思います。

主が本当に与えたいものとは違う、小さいものを必死に求めてしまっているのです。

私たちは愚かで、つい目に写るものに心が動きます。

目の前にある問題に心が持って行かれるのです。

もしかしたら、私たちが必死に「今日の食べる物」を求めすぎて、主が私の足を癒して下さっているのに、「主は祈りに応えて下さらなかった」と感じてしまっている可能性もあります💦

御心かどうか分からない時、

「主よ。私はこの様に願っています。この様に助けてもらう事を切に願っています。しかし御心でないのであれば、私に気付きを与えて下さい。私の心を変えて下さい。

御心であるならば、主の時が来るまで祈り待つ事が出来ますように」と祈るのが良いかもしれません。

私たちは、祈った事を忘れてはいけないのです。

忘れると主に対して疑心暗鬼と不信仰しか残らない・・のです。

御心にかなう祈り・・難しいですね。

ついつい自分の願いを祈ってしまいます。

主が御心通り動かれるように、自分の思いを主の前に下ろし祈っていきたいです。

また「流石にこれは無理だろう」と勝手に諦めている事柄を祈っていきたいです。

今日も、主と共に歩む一日をお過ごしください!

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