あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
ヤコブ5:13
数日前のブログに書いたのですが、
今、問題が次から次へと起こり、「問題に押し潰されそう!!」という友達がいます。
この友達の様に、次から次へと問題が生じ、疲れ果て生きる事が辛くなり、人生の危機を感じた事はありますか?
多分、多くの人が一度や二度、人生のどん底かのような時間を過ごしたことがあるのではないでしょうか。
誰もが人生で何度か難しい局面に立たされます。問題のない人生などないのです。
そして多くの人は、その難しい局面に立たされた時、「人生の危機」を感じます。
これは本当に「人生の危機」なのでしょうか?
確かに私の友達(ノンクリ)にとっては、自分で問題を打破しないと前に進めない、解決できない、脱出できないと思っているので、
凄く凄く苦しいと思います。「人生の危機」だと言えると思います。
しかし、私たちクリスチャンはどうでしょうか。
同じように問題が降りかかって来ても、主に祈り助けを求める事ができます。
ヤコブは、兄から長子の権利を奪い、命の危機を感じ、兄から逃げるように家を出ました。
自分が行った行動の結果ですが、自分の人生に大きな問題が生じたのです。ラバンのもとに行き、兄を避け過ごしました。
そして20年もの時間が過ぎ、兄に再会しようとラバンのもとを去るのですが。それでもヤコブは兄エサウに対して恐れを持っていました。
20年間も問題を解決する事が出来ず、恐れを持ち続けていたのです。
しかし、ヤコブは祈る事によって主の御業を体験し、兄との和解を手に入れるのです。
ヤコブもダビデも・・・理不尽な困難の中を歩む時間を持たされました。祈りによって困難に勝利したのです。
聖書には、祈りにより問題から解放される人が多くいます。
ある人は、病の祈りから、失敗の祈りから、怖さや恐れの祈りから、悲しみの祈りから、孤独の祈りから、主の御業を経験しています。
私たちクリスチャンにとって「人生の危機」とは・・・
祈らない事が危機なのです。
主を求めない事が危機なのです。
主が私たちの主であると知りながら、背を向ける事が危機なのです。
祈りは、主の偉大な御業を体験できるツールなのです。
しかし、主の御業は、見れる人と見れない人がいます。
日常の他愛もない出来事を通して、主は私たちに沢山語りかけて下さっています。
しかし、私たちが日ごろ祈っていないと、心に何も響かないあり触れた出来事として過ぎ去って行くのです。
主の語りかけに気付かずスルーしてしまうのです。
しかし、祈っている人は、何気ない日常の中から、主を感じ答えを得るのです。
同じあり触れた日常の中を過ごしていても、祈る者とそうでない場合では大きな差があります。
主をもっと近くに感じ、御心をもっと感じれば・・・
困難は困難で終わらないのです。困難が降りかかっても、主によって恵みに変わる体験が出来るのです。
いきなり、長時間の祈りの時間を持つのは難しいです。
今日も、少しだけ、短くて大丈夫。
一日に何度も主を思い出し、祈る習慣を身に付けましょう。
まずは、主を思い出すところから・・!
主は私たちが近くに来ることを待っておられます!
今日も、一歩主に近寄りましょう!