イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。彼らの主の目の前に悪を行ったので、主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。
エグロンはアモン人とアマレク人を集め、イスラエルを攻めて打ち破り、彼らはなつめやしの町を占領した。
それで、イスラエル人は十八年の間、モアブの王エグロンに仕えた。
イスラエル人が主に叫び求めたとき、主は彼らのために、ひとりの救助者、ベニヤミン人ゲラの子で、左ききのエフデを起こされた。
士師記3:12-15a
士師記・・あまり読まれない方も多いと思います。
イスラエルの民は、エジプトの地からモーセにより救出されました。そして40年間さまよい、約束の地へと入っていくのです。
リーダーはモーセでしたが、モーセの死後、ヨシュアが民を率いたのです。ヨシュアは民を12の土地に各部族ごと分けました。
士師記には、ヨシュアの死後の歴史が記されています。
まだイスラエルの民に王が存在していない時代、各部族を率いる人物が必要です。その人物が「士師」と呼ばれる人なのです。
士師とは、「裁き司」と呼ばれています。指導者、裁判官、解放者、救済者という意味です。(簡単に言えば、各部族の長です)
士師記は、この12人の士師たちがどの様にイスラエルの民を導いたかが記録されているのです。
この士師記は同じことの繰り返しが書かれています。
民の不信仰 → 神さまの試み → 敵からの攻撃 → 主に助けを求める → 主が士師を送り敵に勝利 → 平安な生活 → 士師が亡くなる → 民の不信仰 → ・・・
これが12回繰り返されるのです。
士師記を読むと、人間の愚かさ、罪深さ、感謝を忘れる・・この様な姿を見る事が出来ます。
私たちもこのイスラエルの民と同じです。
救われた時、罪赦され喜びに満ちたのに、信仰生活を送る中で、その喜びを忘れ、主に感謝する事も忘れ、不服や不満を感じたり、時には主と距離を置いてしまったりします。
私たちもイスラエルの民と同じで、この様なサイクルを持つ信仰だと思います。
これはもしかしたら、仕方がない事かもしれません。罪のある人間の本質なのかもしれません。
しかし、私たちには聖書が与えられており、こういった士師記を読むことによって人間の本質を俯瞰して見る事ができます。
ですから、人間の愚かな本質を理解し記憶し、何があっても「主を見上げより頼む」という事を心に刻む必要があると思います。
物事が思う通りに行かなかったり、傷ついたことがあったり、理不尽に感じるようなことがある時は、この不信仰のサイクルを歩まないように「信仰に気を付ける時」なのです。
このような愚かな人間の本質を目にすると、聖書に出てくるリーダーたち・・・
とても立派なリーダーだと思いませんか?
ダビデやソロモン、モーセ、パウロ・・・あげればキリがない位、沢山の優れたリーダーがいます。
到底・・自分とは差がありすぎる人物です。
自分の人生を生きるだけでも、不信仰のサイクルを辿ってしまう私。
リーダーは沢山の人の人生を背負って歩みます。問題も責任も大きいのです。
聖書に出てくるリーダーは特別で、私達とは違うのでしょうか。
主は、この様に素晴らしい人物を用いられ、私のような平凡な人は、この様なリーダーには、なれないのでしょうか?
この士師記を見ると、サムソンのような士師もいますが、
どちらかと言えば、人に蔑まれていた様な人も士師として用いられています。
エフデという士師は、「左利き」だったと記されています。当時の左利きというのは、右手が不自由で障害(者)であったという意味です。しかし主は、この左利きだという点を用いて、イスラエルの民をモアブから救いました。
シャムガルという士師は、農夫でした。農耕のための役用として牛に道を指図する細い棒・・・この棒でペリシテ人を600人撃ち殺し、イスラエルの民を救ったと記録されています。
人々から敬われない、人々から差別されている、社会的に地位が低い人を士師として用い、イスラエルの民に勝利を与えられているのです。
ですから、リーダーと言うのは、人間側の優れているかどうかレベルの問題ではなく、主が働かれたかどうかなのです。
私たちも、リーダーになれますし、用いられる事は可能なのです。
また、私たちが困難な中を歩む時、思ってもいない平凡な人が自分を導くリーダーとなり、支えてくれるのです。
自分にある問題が、自分では到底解決できず、主の大きな奇跡が起きない限り、解決できないと思うような問題があったとしても・・・
主は思ってもない人を通して、もしかしたら自分より信仰が浅いと思っていた人を通して、または自分の弱点、不足な面を通して働かれるのです。
自分の身近に助け手、導き手が準備されているという事です。
勝利を与えて下さるのは、凄いリーダーではなく、「主」なのです。
今日も、この主を見上げて一日をお過ごしください!