すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
マタイ26:33
イエスさまが十字架に架かる前に、ペテロが話した場面です。
他の福音書を見ると、
「主よ。ご一緒になら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)
「主よ。なぜ今はあなたについて行くことが出来ないのですか。あなたの為には命も捨てます。」(ヨハネ13:37)
立派な信仰告白です。しかし、ペテロは鶏が鳴く前に、3度も「主を知らない」と言ってしまいました。
信仰告白をして直ぐにです。
韓国で住んでいた時、同じ教会の青年部の大学生がこんな話をしました。
「すごくショックを受けたんだ・・ 同じ大学のベトナムから来た留学生と話す機会があったんだけど。僕は、彼が韓国の大学で学び、韓国で良い職業をここで得ようと留学に来ていると思っていたのに、
彼の将来の夢は、”自国の一番貧しい地域に住んで、そこを学校を建て経済的に豊かになるように仕事を与えれる人になりたい”というものだったんだ・・その為に留学に来ていた・・」
「僕はその話を聞いてショックだった。彼の目標が立派だというのもあるけれど、彼はクリスチャンじゃないんだ・・僕はクリスチャンなのに。」
「僕は今住んでいる所より、もっと良い所に住みたい思いを常に持っている。でも彼はわざわざ、人を助ける為に、悪環境に身を置きたいと言ったんだ。」
「僕は、毎週礼拝に出て、主に祈り、心満たされ、”主に自分の人生を捧げます。主と共に歩む人生を与えて下さい”って祈ってるのに・・」
「”主よ!主よ!”と叫びながら、”主に従い主に捧げる”と祈りながらも、僕の心は自分の生活のことしか頭になかった・・」と話していました。
「自分はペテロ」だと・・・
私もこの大学生の話を聞きながら、「え・・ならば私もペテロ・・」と思いました。
私も”主よ!主よ!”と祈り、”主に従い主に捧げます!”と祈っています。
しかし、自分はさらに良い所に身を置こうと考え、日々良いものを食べようとしています。
自分を今よりも悪環境に身を置き、人々を助けようと思う心を持っていませんでした。
自分は良い所に身を置き、そこから悪環境に居られる人々に手を差し伸べようとしている事に気が付きました。
ペテロは、決してお調子者だった訳ではないと思います。
感情豊かで、心が燃えるタイプだったんだと思います。この時の信仰告白は、その時、本当に牢であろうと、死であろうと、覚悟はできており、死まで主と共に歩みたい!!と思っていたのです。
ペテロは窮地に追い込まれ、怖さから弱さから「知らない」と、先ほど主に言った事に反する事を、言ってしまったのです。
しかし、私やこの大学生は、窮地に追い込まれている訳でもなく、平穏な日常に居ながらも、祈りとは違う心を持ち、二枚舌のような生活をしてしまっているのです。
しかも、私はこの大学生の話を忘れかけていました・・💦
今日、今まで何度も読んだこの聖書の箇所を読み、この大学生を思い出しました。
主が今、私にこの事を語っておられるんだと思います。
エドマンド・バーク(イギリスの哲学者)の言葉を思い出しました。
『悪が勝利する為に必要なことは、善人が何もしないことだけである。』
私たちの祈りは、本心でありながら、主の目から見て正しくない事、矛盾している事が多いと思います。
矛盾に気付かされたら、その時から素直に立ち返ろうと思います・・・
今日も、主の御声を聞く祝福を与えられる一日となりますように。