すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
マタイ11:28-30
満足した人生を歩めていますか?
「あ~~あれが欲しいな」「あんな生活をしてみたい」「あと10万収入が多ければもっと生活が潤うのに」と考えたりしませんか?(私はします・・)
魚は海の中で生きています。魚たちにとって海の中で過ごすのが快適なのです。海の生き物だからです。
鳥は空で過ごすのが快適なのです。空を飛ぶ生き物だからです。
魚や鳥に、大きな豪邸や高級な車を与えても、大きな立派な水槽や鳥かごを与えても、快適な生活はできないのです。
私たちが価値を置いているもの、良いとされている物を与えても、それは何の役にも立たないし、それらが、魚や鳥を幸せにはしてくれないからです。
人間とは住む世界が違うから、満足するものも違うのです。
私たちは、どうでしょうか?
「もう少し・・ならもっと幸せになるのに」「もっと・・ならもっと楽な生活ができるのに」など、手に入れたい物が沢山あります。
それらは尽きる事がなく、「あれさえあれば・・」という思い、手に入れたい物が次から次へと出てくるのです。
いつまでたっても満足できないのです。
どうして私たちは、満足できる生活をすることが出来ないのでしょうか。
人間は本来、この世に属する者ではないからです。
私たちは罪を犯し、罪を持ち続けているから本来いるべきところとは違う所に属してしまっているのです。
もともとは、エデンの園が私たちの住むべき場所だったのです。
罪のない状態で主と共に住むのが、私たちは快適で満足が出来る場所なのです。
しかし私たちが今、生きている世界は、罪が溢れ、主を忘れている世界に存在しているのです。
私たちは、平安に満たされ、魂が満足できる世界に身を置いていないのです。
どうすれば、魂の満足、魂が平安に包まれて生きて行けるのでしょうか。
この世界で魂を満足させるのは「礼拝」しかないのです。
自分の罪を告白し、
主を慕い求める真実な心をもって礼拝をする時、
私たちの魂は安らぐことができ、満足を得ることが出来るのです。
自分の罪の告白なしに、主からの罪の赦しを得ずに、真の平安や満足は得ることができません。
礼拝、祈り、賛美を通して、主に繋がるのです。
私たちがこの世界で、虚しい思いを持ち、満たされずに生きているのは、
罪を持ち、主を忘れ、死に繋がって生きているからです。
何となく礼拝を捧げるのではなく、
心を主に寄せて礼拝を捧げるのです。
自分は主に繋がりたい。
主によって満たされたい。
主によって変えられたい。
という思いを持って礼拝を捧げるのです。
礼拝が習慣や義務ではなく、喜びの心で礼拝を捧げれるようになります。
喜びの心で礼拝を捧げる時が、私たちの居場所であり魂の安らぎと平安、満足を満たす場所なのです。
喜びの心で礼拝を捧げ、もっと満たされたいと思います。
今日も、主の愛を沢山感じる一日をお過ごしください!