また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いた、言った。「ああ、肉が食べたい。
エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎ、にんにくも。
だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」
民数記11:4-6
イスラエルの民は、エジプトでの奴隷から解放され、約束された地・カナンへ向かいました。
イスラエルの民は、エジプトで400年もの間、強制労働に苦しみました。
その中、モーセに率いられて出エジプトをするのです。400年もの奴隷だった民が自由を得たのです。
荒野の旅を始めてまだ三日だというのに、早くも民はひどく不平不満、つぶやきが出たのです。
イスラエルの民は、大声で泣きながら「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎ、にんにくも」と言ったのです。
人間とは愚かですよね・・・
目先の小さなストレスで、イスラエルの民は、自分たちの先祖も、また親も、自分たちの子までが、強制労働に苦しんで過ごしてきたことを忘れるのです。
荒野で初めて、マナが降って来た時は、すごく感謝しました。しかし、毎日マナを食べる事によって、マナがあるのが当たり前になってしまうのです。
そして「エジプトでは、”ただ”で魚を食べていた・・」と言うのです。
単に「魚を食べていた」と魚を懐かしむだけでなく、「ただで」とあります。
奴隷生活を強いられ、毎日お腹いっぱい食べていたのでしょうか。仕事は週休二日だったのでしょうか。良い環境とは程遠い人生だったはずです。
自由を手にし、労働に悩まされなくなるのが日常になると、今ある日常に不満を感じ、昔を懐かしむのです。
そして、今よりも昔の方が良かった・・・というような発言までしてしまうのです。
「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」・・
私たちは、一冊にまとまった聖書を読みながら、「人間って愚かだな・・」と思います。
それは、私たちは聖書を通し、物事を俯瞰(ふかん)して見れているからです。高い所から見下ろすように、聖書を読み、出エジプトの全体を見れるので、イスラエルの民って・・と思えるのです。
人間の本質は、この時代の人も、現代人も変わっていません💦
イスラエルの民が、エジプトを脱出し荒野でさまよっている40年間・・その渦中にいる時は、自分が愚かな発言をしているとは気付かないものなのです。
私たちも、自分の人生を俯瞰して見る事ができません。
私たちは常に自分の人生の渦中にいるのです。イスラエルの民と同じような「愚かな部分」を沢山持ってしまっているのです。
主に救われ、今まで感じた事がないような満たされた思いに包まれたのに・・・
月日が経つにつれ、その熱い思いは鎮火していき、「主は本当にいるのだろうか・・」と頭を過ぎらせるのです。
救いや、主の恵みを感じても、時間が経ち、問題が自分に降りかかる毎に不信仰になってしまう自分がいます。
イスラエルの民がもらした不平不満、つぶやきは、現代のクリスチャンにも見受けられる問題です。
イスラエルの荒野の旅は、現代を生きるクリスチャンがこの世で生きて行くのと同じです。
クリスチャンにとってこの世は荒野であり、決して快適な世界ではないのです。
主の基準で世の中が動いていないからです。
主の思いとこの世の常識がかけ離れているからです。
イスラエルの民は、エジプトでの奴隷生活が楽であり、恵まれていたような思いに浸っていますが、
実際は、激しい苦役であえぎ、叫んでいたのです。しかしそれ程苦しめられた激しい労働を忘れているのです。
これは、私たちも陥ってしまいやすい「落とし穴」です。
この世は楽しそうに見え、クリスチャンの生活は窮屈に感じたりするのです。
そして、あれほど苦しんだ過去のほうが良かったように見える時があるのです。
主を信じ、罪赦された時の喜びを忘れ、過去の虚しさや苦しさ、暗闇に戻ろうとする事があるのです。
今日の聖書の箇所を見ると「イスラエルの民の中に混じってきた者」が居てることが分かります。
約束されたイスラエルの民以外の外国人の事です。
出エジプトをする時に、イスラエルの民に混ざり外国人がいました。(出エジプト12:38)
主との契約外の人も混ざっていたのです。そして混じってきた者のつぶやきに影響を受けてしまい、民全体に影響が及んだのです。(混ざっていたのが悪いことではなく、影響を受けたことが問題)
正しくない声に惑わされていないでしょうか。
主の思いとはかけ離れたつぶやきに影響を受け、同じようにつぶやいていないでしょうか。
これは世の中でも同じですし、教会の中でも同じです。
正しくない言葉に心を傷つけられていないでしょうか。主の思いとはかけ離れた言葉によって傷つき、主から遠く離れていないでしょうか。
教会にいるすべてのクリスチャンは、欲も自我も持っている状態です。
教会に居るすべての人が聖人ではないのです。
主の思いと違う言葉や人の態度に傷つく必要はないのです。
主と違うものを信じないように気を付けないといけないのです。
世の中に流されないように・・・
主の御言葉を信じ歩む一日をお過ごしください!!