天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
伝道者の書3:1-2
誰が言われたのか忘れたのですが、こんな話を聞いた事があります。
プロのゴルファーの人の言葉だと思います。
プロとアマの違いです。
アマチュアは、一打目をとりあえず打ってみる。そして一打目の行き先を見届けてから、次の2打目を考える。
しかしプロは、始めから目標をグリーンに置いている。そして何打でゴールするかを逆算してから一打目の方向性を考えて打つ。
これを聞いた時、「良い信仰者の例え話」みたいだなと思いました。
私たちは、目先にあるもの、何となく最善だと思う事を選択し、その結果に従って、何となく開かれた道を歩み続けてしまっているように思います。
そうではなく、プロのゴルファーのように、
信仰を持ち、10年後、どの様なクリスチャンと成長しているか。20年後の姿、30年後の自分の姿は信仰者としてどの様であるか、目標を持って逆算し、今を生きて行くのが良い信仰者ではないかな・・と思いました。
また、人生の最期を頭の念頭に置いて、その時が来た時、どの様に自分の「死」と向き合える自分でいれるか・・を今から意識する必要があるように思いました。
何度かブログにも書きましたが、
「人間は生きてきたように死ぬ」と言われています。
人は亡くなる前は取り繕う事ができず、今まで生きてきた人生が反映されるそうです。どの様に生きて来たか、死の間際に現れるそうです。
人生の最期は決して、繕う事が出来ず、自らの生き方、信仰の持ち方、どの様な信仰者であったかが表れる・・・💦
自分の人生が反映されるその姿、美しいものでありたいですよね。
主に対して、家族や隣人に、感謝を持って「天国で会いましょう」と言える最期を送りたいものです。
私の知り合いは、日頃から「私は絶対に死なない」と言われていました。
そして、亡くなる瞬間まで「絶対に私は死なない!!死ぬはずがない!!」と言われていました。
死ぬという事を受け入れずに亡くなられたのです。
最期を看取られたご家族は、その姿を見て何を思っただろうと思うと心が痛みます。
イエスさまは、一番つらく苦しい死に方をされました。十字架刑は、時間をかけ苦しみを与えて殺す方法です。この世で一番ひどい拷問を受け亡くなったのです。
イエスさまの最期の言葉・・
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」
「完了した(ヨハネ19:30)」と言われ、頭をたれて、霊をお渡しになりました。
イエスさまの最期の姿は、ご自分の使命を全うされた姿を残されました。
耐えれない痛みや苦しみの中、私たちの罪の救いを求められたのです。
また同じ十字架に掛けれていた犯罪人に対して、イエスさまは十字架の上から、
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)」と言われました。
大きな苦しみにある中、自分が死から逃れる事が出来ず、死が目前に迫っている中、最後の最後まで人の救いに対して働かれたのです。
イエスさまでさえ、死を目の前にし、長く祈られています。(ゲッセマネの祈り)
最期に対して準備が必要だという事を教えられている様に思います。
私たちは目標を据えて、日々の信仰生活を歩む必要があります。
今日は、与えられた人生で何をすべきか。
どのような心や信仰を持って歩むべきか。考え祈りたいと思います。
今日も、主に与えられた時間、主を思いつつ過ごす一日となりますように!!