しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。
ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」
創世記39:8-9
ヨセフの兄たちが、ヨセフを奴隷としてエジプトに売りました。
そしてヨセフは、エジプト人のある主人の家に買い取られました。
主がヨセフと共に居られ、主人の側近となる事が出来ました。ヨセフは主人に愛され、信頼され家をの管理を任せられ、全財産をヨセフの手にゆだねた。
また主は祝福して下さり、ヨセフの管理以降、ますますこの主人の家は祝福を受けたのです。
その時、主人の妻が「私と寝るように」と、毎日ヨセフを誘惑します。
その時の、ヨセフが奥さんに言ったセリフが今日の御言葉です。
改めて読むと、ヨセフは「大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」と言っています。
主人にこの上ない信頼を得ていて、主人の奥さんと罪を犯すという事は、主人を裏切るという事以上に、ヨセフにとっては「神に罪を犯せない」という考えを持っていたのです。
私であれば、「主人を裏切れない」と考えてしまいますが、ヨセフがこの様に発言出来たのは、「今ある自分は主の守りがあってこそ」だと言う思いが100%だったのだと思います。
主人を裏切れない・・ではなく、主を裏切れなかったのです。
なのに・・・理不尽ではないですか?
ヨセフはこの様に清さを保ち、主に罪を犯さないように努力していたのに・・・主人の奥さんはヨセフを手に入れる事が出来ないと分かると、ヨセフを悪者にしました。
主人に「あなたの奴隷が私にいたずらをしようと・・」とヨセフの上着を見せたのです。主人は怒りに燃え、ヨセフを監獄します。
ヨセフがこの主人の家に仕える事になった時、2節を見ると「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり・・・」とあります。”主が共に居られ”たのです。
主が共に居られ、ヨセフは良い家に仕える事になりました。しかし、ヨセフが誘惑に負けなかったのを奥さんに逆恨みされ、罪人とされ監獄されるのです。
監獄された後、21節を見ると「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」とあります。
え・・・この家で仕える時、主は共に居られ、監獄に入ってからも主は共に居られた・・・
じゃ、主人が怒りに燃え、誤解され捕まえられた時は、、主は共に居なかったのか・・・?
ヨセフは誘惑に負けず、それは主を裏切る行為となるからと清さを保ったのに・・・立派な信仰告白を奥さんにしたのにも関わらず・・・牢獄に入れられたのです。
神さまって理不尽な事をされると思いませんか?
主はヨセフが濡れ衣をかぶされた時、共に居なかったのでしょうか?
ヨセフが、罪を犯してしまったのなら、牢獄に入れられるのはまだ納得ができます。
ヨセフは、自ら誘惑を避け、主の御心通りに歩んだのに・・
ヨセフは将来、この主人よりもっと大きな仕事を任せれます。エジプトや周辺諸国の命を守る仕事をするのです。また自分を売った兄たちや、父親、自分の一家を守る役目を果たすのです。
そうなる為の、「鍛錬の時間」・・・投獄され、理不尽さを感じただろうけど、その中でも主は道を整えていて下さり、必要を満たして下さっていました。
鍛錬には時間がかかります。大きな器として用いられる為に必要な時間だったのです。
しかし、こう思えるのは、私が創世記の50章まで読んだから分かる事であって、
渦中の人にはそれは分かりません。主がされたことは、理不尽でしかないのです。
これは、ヨセフだけでなく、私たちクリスチャンも同じです。
主が用いようとされる器になる為に「鍛錬の時間」が必要なのです。
鍛錬って嫌ですよね? できたら避けて通りたいものです。
しかし、主が与えて下さるものは、何にも変えれない素晴らしいものばかりです。
やがて「鍛錬の時間」が「恵みの時間」へと変化するのです。
ヨセフは、自分を売った兄たちと再会し、この様に言いました。
「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。(50:19-21)
ヨセフは、兄弟の誰よりも鍛錬の時間を長く持ちました。しかし、家族と再会した者の中で一番大きな恵みを受けたのは、兄たちではなくヨセフです。
主の鍛錬の時間は、単なる苦労ではないのです。意味があるのです。
ヨセフが濡れ衣をかぶされ、投獄された時も、主が共に居られました。投獄は正しい事ではなかったかもしれませんが、主が赦された出来事です。
しかし、信仰がなければ、主は私とは共に居られないと感じ、単なる理不尽、苦労、不運で終わるのです。そこに意味は見いだせず、自分の不幸を嘆くことになるのです。
私たちは信仰を持って、日々歩みましょう!
今日も主の中で、豊かな一日をお過ごしください!!