けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
ヨハネ8:7-9
よく知っている話ですよね。
イエスさまの話を聞こうと、民衆が集まって来ていました。
それを横目で見ていた律法学者とパリサイ人たちが、民衆が集まっている前に、姦淫の女を連れてきたのです。
そして「この女は姦淫の場で捕まえました。モーセの律法ではこのような女は石打ちにするようにと書いてあります。あなたはどう思いますか?」と聞いたのです。
この時の、パリサイ人たちの心情はどうだったでしょうか?
本当に、どうして良いのか分からず、イエスさまに相談しに来たのでしょうか?
パリサイ人たちの考えはこうでした。
イエスさまが「石打ちにしなさい」といえば、「あなたは罪人を救うために来たのではないのですか?」と問い詰める事が出来ます。
イエスさまが「許しなさい」と言えば、旧約聖書の律法を無視したことになります。「律法を軽んじている」と批判殺到です。
パリサイ人たちは、イエスさまに罠をかけようと、陥れようと、「絶妙な案件」を提示したのです。
どちらを選択しても、イエスさまを追い詰める事が出来る!! と意気込んでいたと思います。
イエスさまの話を聞きに来た民衆たちも、息を飲んだのではないでしょうか?
イエスさまは、どの様に言われるんだろう・・・って。
イエスさまの答えって完璧ですよね・・・
「罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」って・・
この様なイエスさまの答え・・・やっぱりイエスさまが本物だ✨と改めて思います。
私たちはこの聖書の個所から、考えたいのは、
私たちはクリスチャンだと言いながら、パリサイ人的な所がないでしょうか?
人の過ちや、失敗に対して、自分流の正義感、小さな正義感を振りかざしていないでしょうか?
今は、SNSが当たり前に普及されており、何か事件が起きるとあっという間にSNSがざわつきます。
そして、身元を明かさずに、気軽にそれに対して評価し、心無い言葉を残してしまうのです。
気軽に深い考えもせず、呟いた事が、それを読んだ人に影響し、雪だるま式に言葉が剣に変わるのです。
自分の自己流の正義感から発した言葉が、大きな炎となるのです。
あのように小さい火があのような大きな森を燃やします。舌は火である(ヤコブ3:5-6)
自分が考える正義と、主が思われる正義は違います。
容易く人を評価してはいけないし、人を裁いてはいけないのです。
イエスさまが言われた通り、罪のない者が裁くべきです。
私たちが、簡単に心無い言葉を投げかけてしまうのは、自分の罪を忘れてしまっているからだと思います。
自分の罪の大きさが身に染みて分かる者は、口をつぐむはずです。
私たちの口が、人を裁く事がありませんように。
今日も一日、主との時間を通して、主の似姿に成長できますように・・・