「主に喜ばれる行い」って何ですか?【エペソ2:8-10】

2022年

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

エペソ2:8-10

良く聞く御言葉ですよね。

私たちは良い行いをしたから、救われたのではなく、イエスさまを信じるその信仰によって救われたと。主の救いは、主の恵みによりものだと・・・

その理由は、「誰もがほこる事が無いように」

「私はこのような慈善活動をしています!」「社会の為に、この様な活動と資金を提供しています」と言わないように。

良い行いが、「自分の株」を上げる事になるからです。良い行いで評価をしだすと、世の中は人をそれで評価するようになるのです。

結果的には、評価される良い行いは、お金持ちしか出来なくなるのです。

また、その様な世の中になると、良い行いは、時間や心も不必要となり、ネットで送金すれば終わりになります。

では、10節にある「良い行い」とは何でしょう?

「良い行い」とは、救われる為にするものでなく、主を愛し、信じ、感謝しているからする行動です。 信仰の証拠として表面化するものです。良い行いの動機は、「主を愛している」からなのです。

 

それでは「主に喜ばれる行い」とは何でしょうか?

献身者? 献金を沢山する人? 奉仕をする人? 伝道を一生懸命する人?

これらのものも、主に喜ばれる行いだと思います。

聖書に、主に喜ばれる行いがどのような物か、具体的に書かれています!

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』(マタイ25:34-36)

主に喜ばれる行いは、

お腹のすいている人に食べ物を与えたり、旅人に宿を貸し、喉の渇いている人に水をあげたり、裸の人に服をあげたり、病気の時に見舞い、牢に居る者を訪ねる・・

主に喜ばれる行いは、小さな行いです。弱い立場の人を思いやる、小さな優しさです。

自分ばかりを見つめないで、他の人に配慮し思いやる心です。

誰も目に止めないような、本人も忘れてしまうような、立場の弱い者に対しての働きかけです。

「主に喜ばれる行い」に対する、イエスさまの答えって素晴らしくないですか?

多くの宗教は、献金を集める事に必死になり、捧げる事を重要視していると思います。

誰にでも出来る小さな思いやりを求める主。

このような御言葉を読む度に「やっぱり主が本物だな・・・」と思います。

考えてみたら、偉業をなす子どもも素晴らしいとは思いますが、

人を思いやり親切に出来き、人の立場にたって物事を考えらえる・・・その様な人間性を持つ子どもに育って欲しいと親は願いますよね。

私たちも、主を愛する者として、隣人に手を差し伸べましょう!

信仰を小さな行動であらわす一日となりますように!!

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