あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
マタイ7:9-11
主の祝福って何でしょう?
自分が描いた通の人生を歩めることが祝福でしょうか?
自分の願い通り道が開けていく事が祝福でしょうか?
私たちが想像する「祝福」とは「願いが叶う事」だと思ってしまっています。
私は聖書に出てくる人物で一番好きなのはヨセフです。
ヨセフは12人兄弟の11番目で、両親に特別可愛がられた子どもです。
幼い時に夢を通して、将来何か偉大な人物になるののではないかという夢を二度も見ます。
しかし、そのような示しとは裏腹に、ヨセフは波乱万丈な人生を歩みます。ヨセフ 兄に奴隷として売られ、両親はヨセフは死んだと思われていたのです。
22年もの間、苦労を繰り返すのです。何度か、苦労はそろそろ終わりかな・・と思いきや、次なる試練がやって来る人生でした。
モーセも同じです。イスラエル人として生まれ、当時のエジプトのファラオ王はイスラエル人が増えすぎる事に危険を感じ、生まれたイスラエル男子は殺すようにと命令を出した時代に生まれたのです。しかしモーセは主の摂理のなか、生き残ったのです。
しかも、エジプトの王女の養子となったのです。苦役を課せられ不当な扱いを受けている同胞を見る度にモーセは心を痛めました。「自分こそがイスラエル人を解放させる事が出来る」と思ったのです。
しかし、モーセは荒野に追いやられ羊飼いとなりました。そして「イスラエル人を解放する」という使命を果たすのに40年待ったのです。
ダビデも、幼い時にイスラエルの王になるという予言を受けました。しかし実際に王になる前に、何度も殺されそうになったのです。
彼らは、主からの示しを頂いていたにも関わらず、予想外の人生を歩んだのです。
聖書にはそのような人物が多いです。
主の御心であり、計画であり、それを本人に示しているにも関わらず、私たち人間の想像を超えた人生を歩んでいるのです。
私たちは、自分の人生をシミュレーションします。この大学に入学出来たら、こんな会社に入れるだろうし、そうしたら、大体〇〇歳ぐらいで結婚して・・・とか。親は、子どもの人生もシミュレーションします。
残念ながら、主の祝福とは、自分が描いた思い通り人生を歩めることではないのです。
主の祝福とは・・・
「主の願い、主の思いが、私の人生で実現していく事」が祝福だと思います。
「え・・・そうなの? なんか主の思い通りの人生が祝福なんて、なんか主の身勝手じゃない?」と思ったりしましたか?
ヨセフもモーセもダビデも、大きな苦労をしましたが、人間の想像を超えた御業を体験でき、用いられたのです。
彼らが人生を振り返った時、「自分の人生は苦労だった」というでしょうか?
主の足跡は、時間が過ぎてから分かるのです。
時間が過ぎ、人生を振り返った時、主の計画、主の導き、主が共に居て下さったこと、などが分かるのです。
彼らは、大きな主の祝福を受けた人たちです。
私たちの想像は、小さい小さいものに過ぎないのです。
私たちは、自分の想像を超える事は出来ないのです。
主は、私たちの想像を超えたものを与えようとして下さっているのです。
私たちの想像が余りにも小さくて、主の祝福が入らないのです。
小さいスパンでしか、想像できない私たち。主の目は大きいのです。
主が私たちに準備して下さっている祝福は壮大なのです。目先の小さなものではないのです。
自分の人生を主に委ねてみましょう。
主が自由に私の人生で働かれるように。主に用いられる人生を歩めることが出来るように。
主の足跡を知る事が出来るように。
今日も、この一日が主の祝福の日となりますように・・・