クリスチャンらしい人ってどんな人?【マルコ2:17】

2022年

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

マルコ2:17

クリスチャンらしい人って、どんな人を想像しますか?

清楚な感じ? 純粋な感じ? 清く正しく、人に親切で、良心的に生きている感じですか?

罪を遠ざけ、毎日聖書を読み、祈りの時間を持ち、主を愛し、主に愛されている、、と言うようなイメージではないですか?

あなたはどうですか?

あなたは、清いクリスチャンですか?

あなたは、正しいクリスチャンですか?

あなたは、主に喜ばれているクリスチャンですか?

多分、殆どのクリスチャンや、ノンクリスチャンが持っている、クリスチャンのイメージは、こんな感じではないでしょうか?

だから、自分が想像するクリスチャンと、教会に居るクリスチャンのイメージが違えば、、、どうなりますか?

「あの人、本当にクリスチャン?」「クリスチャンなのに・・・」「あれでも、クリスチャンってい言えるの?」「クリスチャンなのに、あんな事言うって信じられない。」「あの人は、クリスチャンだと言ったらダメじゃない?」という声が聞こえてくるように思います。

教会に居れば、このような言葉を時々聞きます。

みなさんも聞いた事はないですか? こんな思いが大きくなると、教会に通うのが難しくなります。

クリスチャンに、ガッカリするからです。「クリスチャンって大したことないな・・」

聖書には良い事が書かれていると思うけど・・・ クリスチャンに魅力を感じないのです。

どうしてこんな事が起こるのでしょうか?

 

まず「神」と聞いて、私たちはどんな方を想像しますか?

悪を嫌い、罪を嫌う、正しい正義で公平な方。と考えませんか?

「神」のイメージは、「罪人を嫌っている」という考えの人が多いようです。

ここからが間違えている様な気がします。

今日の聖書の個所にあるように、

主は、罪人を排除する為に、この世に来られたのではないです。

イエスキリストは、罪人を招くために来られたのです。

ですから、教会に集まる人は、罪人なのです。

 

自分に、罪はない!と思っている人にとっては、主も教会も、必要ないのです。

クリスチャンらしい人とは、まじめな人、聖書を良く知っている正しい人・・・という人ではないのです。

クリスチャンらしい人は、「自分が罪人だという自覚がある人」なのです。

「罪人」と聞くと、社会的な罪だけではないのです。人に迷惑をかけなければ良いという訳ではないのです。

罪は、人に対してだけではなく、神に対してです。

「人と比べて、罪が少ない方だと思うから、大丈夫!」という考え方も、自覚がある人ではありません。

聖書の罪の定義を知っていますか?

聖書に出てくる「罪」はギリシャ語で「ハマルティア」といい、その語源は「的外れ」と言う意味です。

「的」とは、宇宙を創り、地球を創り、そして人間を創った創造主である神の事です。

そして「外れ」とは「背いている状態」のことです。

つまり「的外れ」とは、「神の方向を向かずに神から離れている」という意味であり、これをキリスト教では「罪」といいます。

法を犯す罪、法に触れなくても、うそや、ねたみ、そしりなど、そういったものも罪です。

しかし、一番の罪は、主から離れているという事が罪なのです。

罪の自覚がありますか?

自分が罪人で、主が必要と思っている人が、クリスチャンらしい人なのです。

自分はクリスチャンらしい、クリスチャンなのか、もう一度考える一日になりますように!

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