そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために弦楽器に合わせて。
ハバクク3:17-19
何もかも上手くいかない時ってないですか?
「あれ? どうしてこんなに最近、全てが上手くいかないんだろう・・」って感じる事はないですか?
私も、そんな時があります。
そんな思いの後に、心に静かに湧き上がるのは「神さまいるの・・?」です。
どの様なクリスチャンでも信仰に浮き沈み、、、ふと「あれ?神さまどこにいったんだろう・・」「神さま本当に今も一緒にいて下さっていますか?」と思う事があると思います。
全てが上手く行かなくなると、反省モードになり「何か私は間違えてるかも」「今の姿は主に喜ばれていないのかも」と考えます。
時に立ち止まり、自分の信仰の在り方を、見つめ直すことは良い事だと思います。
しかし、自分が何か間違えているから、主は私たちに罰を与える方ではないのです。
もし、神さまと私の関係がそのような関係(間違えたら罰が下る)なら、私はずっと神さまの顔色を伺いながら、生きて行かないといけなくなり、愛の神さまと言うより、怖い神さまですよね。
物事が何もかも、上手く行かない時は、「主が呼ばれている時」です。
一旦、立ち止まって主のもとに、今ある自分の状況を携えて委ねる時なのです。
主が「今ある状況、心の状態を、全て私に話して欲しい」と思われている時なのです。
だから、何か全てが上手く行かない時は、感謝の心を持って主のもとに行くのです。
そして、主の前で全てをさらけ出し、もう一度、主に対して信頼を確信するのです。
自分の人生の支配を主に委ねますと祈り、主のもとで疲れを癒してもらうのです。
そして、主の前でもう一度、絶対的信頼を選び取るのです。
今日の御言葉の様に、
私たちがどのような状態であっても、私たちは主にあって喜びに満たされ、
私の力を得て、私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませるのです。
今日も一日、主に期待しながら歩みましょう!