あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
使徒20:34-35
私たちは、自分の人生を豊かな者にしようと、高みを目指します。
より良い大学を目指したり、大手の会社に勤めようと努力したり、資格を取ろうと頑張ったり。
会社に入っても、その中で認められようと、努力をします。
出世を目指し、より良い部下を持つ為に、教育をしたりもします。
部下の数が多いほど、自分を慕ってくれる後輩が多いほど、人は満足をするのです。
人に仕える人生より、人に仕えられる人生を目指します。
自分が、誰かのために必要な人間になるより、自分にとって必要な人間を傍に置きたいと思っています。
これは、誰もが自分が豊かな人生を歩むために、手に入れたい環境であると思います。
しかし、本当にそれで豊かな人生になるのでしょうか?
ザアカイを思い出してみましょう。
ザアカイは取税人でした。嫌われ者でしたが、豊かな財を持つことができる職業でした。
ある時、イエスさまがザアカイに目を留め、ザアカイの家に行き共に食事をされたのです。
ザアカイは、イエスさまの愛に触れて、全く別の人に変えられました。
ザアカイは、自分の為に、私服を肥やす人でしたが、主の愛に触れて、分け与える人に変えられたのです。
ザアカイは、主に強制された訳ではなく、義務や罪悪感、恐れからそうしたのではなく、喜んで自発的にしたのです。
人間は、イエスさまの愛と恵みに触れる時、自ら仕える者となることを、望むようになるのです。
どんなに神様が私たちを愛し、恵んで下さったか深く感じると、私たちの豊かな人生を歩むという目標が、主の焦点から見れるように変えられ、分け与えることへと移行していくのです。
・・・という事は、どういう事でしょうか?
もし、長くクリスチャンであっても、仕える人になるより、仕えられる人になりたい! 皆から認められたい!
自分が、誰かのために必要な人間になるより、自分にとって必要な人間を傍に置きたい!と思ってしまっていたら・・・
主の愛に出会えていないのかもしれません。 心が揺さぶられる経験が、もっと必要なのかもしれません。
私も含め、多くの人たちが自分の祝福しか、求めていません・・・
しかし、私たちは、ただ単に自分の為に何かを「得る」為に、生かされているのではなく、
「与える人」になって欲しいと、主は望まれているのです。
与える方が、あなたを満足させ本当の幸いを感じるんだよと聖書に書いてあります。
イエスさまも「与えるために」来られました。(マタイ20:28)
私たちの発想と、主は真逆なのです。
私たちの常識的な考え方自体が、主とは真逆であり、大きくズレているかもしれない・・・という事をいつも心に留める必要があるように思います。
私たちも、仕える人生を歩む為、主の深い愛を体験する必要があります。
今日がその日となりますように!
主の愛に包まれ、主が望まれている人生を歩む者となりますように!