1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
詩篇139:1-4
主は、私に対して「全てを知っている」とダビデが書いています。
しかし、単に「知っている」とは違い「探っている」とあります。
主に対して隠すことが出来ないのです。「ことごとく知っている」と3節4節に続けて書いてあります。
本当にしっかり、調べつくしているという事だと思います。
私達って、人に話しながら気付く事ってありますよね。
話してみて、自分の考えや思い、胸につかえた問題などの本質を、人に話しながら言葉にしながら、問題の根源にある本質に気付いたりします。
主は、私たちが言葉にする前から、もう既に知っている・・・という事は、言葉にならない感情や、もう何が何だか訳が分からない、心のうめき、もどかしさ・・ なども全て私以上に、私を理解して下さり、その思いを汲み取ってくださっているのです。
ですから、私たちは主に対して包み隠す必要がないのです。自分の全てにおいてです。
過去の触れられたくない出来事も、全て私以上にご存じなのです。
どう感じますか?
全てを知って下さっている事に安心や喜びを感じますか? それとも「全てを探るなんて・・・怖い」と嫌な感じがしますか、困りますか?
どう思うかによって、自分の主との関係が現れると思います。
主は、私の全て知っていてくれるのなら、私は何も一つずつ主に話す必要がないと言う訳ではありません。
私たちに傷ついた過去があったとしても、主は私の傷に勝手に働く方ではありません。
主は私を癒したいと思っておられます。その部分に触れたいと思っているのです。
しかし、私たちが、装った姿っではなく、真の弱い自分の姿で主に「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩編139:23-24)」と言うのを待っておられるのです。
主が入って来てよい扉と、入ってはいけない「開かずの扉」を持ってはいけないのです。
自分の傷ついた部分を隠し、その傷のついた部分がある開かずの扉から主を締め出したら、傷は膿んできます。膿みは広がり、良い部分だった所にまで影響を及ぼすのです。
膿みが広がり傷が広がり、私たちはその部分に自分が気付かずとも、支配されるようになるのです。
時間をかけて、ゆっくりと膿は広がるのです。
自分が気付かない支配には、私たちはどうする事も出来ないのです。
理由も分からず、崩れ落ちてくような人生を歩む事になるのです。
反対に、私以上に私の事を知っておられる主に、自分の全ての扉を開いてみてはどうでしょうか?
私たちは、私の内も外も全て知って居られる主の前に「装った自分」で交わってはいけないのです。
自分では大丈夫、と気付いていない部分にまで主に浸透してもらうのです。
思い切って主に全ての扉を開き、私に傷ついたところがないのか、私が握りしめた問題がないのか、ありのままの姿で主に委ねてみては如何でしょうか?
今日が、癒しの日となりますしょうに・・・
お祈りいたします!