父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
ヨハネ15:9-11
主にとどまる・・・ってどういう状態ですか?
毎週礼拝に来ること。熱心に奉仕をすること。主のために何かを行うこと…
それらも本当に大切なことですが、それだけでは主が言われている「とどまるこ」と言う事にはならないようです。
「とどまる」は、一時的なものではなく、「毎日」の歩みであり「継続的」なものです。
「いつも」主と共に時間を過ごし、「毎日」主との親密な交わりを持つことです。
主をいつも記憶し、主を自分の中心に置き、親密で近い関係を保ち、常に繋がっている。
ぶどうの実が枝に繋がるように、主から毎日栄養を頂く。主から命を頂くのです。
私たちは時折、主から離れようとします。
無意識して離れようともしますし、意識的に離れようともします。
無意識は、毎日のルーティーンだし、、深く考えず、物事をこなしていく事が多いです。
特に主が必要ないというか、いつもの日常なので主を思い出さなかったり・・
意識的には、少し離れたいと思ってしまう事はないですか?
少し離れて自由になりたい。何となく解放されたい。主なしでやってみようとか。
どう考えてもこれは大丈夫!と自分で判断したり。
意識的であっても無意識であっても、主から離れるという行為は、何となく、「自分で何とか出来る」と思い込んでる部分があるようです。
これは人間の「うぬぼれ」だと思います。
ふと頭を過ぎる、「神様が居なくても一人で生きていけるんじゃないか・・」という考えから来るんだと思います。
どうして主は「私にとどまりなさい」と言われているのでしょうか?
「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」とあります。
主の喜びで私たちが満たされる為に、主にとどまりなさいと言われているのです。
心配、不安、恐れ、悩み、思い煩いの世界の中に、身を置くことが普通になっていませんか?
さほど、大きな問題に見舞われない限り、不安や恐れの世界に身を置くことに慣れていませんか?
多少の心配があっても、「これぐらい・・」「まだ大丈夫」と思っていないでしょうか?
私たちはとどまる場所を変えなければなりません。
これぐらい大丈夫・・と妥協して生きるような、世界に身を置く必要はないのです。
主の愛の中にとどまる者は、主は喜びで満たそうと約束して下さっているのです。
今日も、主の中にとどまり豊かな一日をお過ごしください!