私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
Ⅱコリント3:18
「クリスチャンになって、日々しんどく苦しい」と言われる方がいらっしゃいます。
どうしてでしょうか?
主が私を許して下さったように、隣人を許すべき。
先に救われた者として、隣人をまず自分が許すべき。
主がこんな私を愛して下さったように、私も隣人を愛するべき。
私はクリスチャンとして真面目に生きるべき。
神の子として、こんなこと考えたらダメ。
クリスチャンだから人を憎んだらダメ。敵を愛するべき。
・・・「クリスチャンだから、〇〇であるべき」という思いが強いのです。
私たちは、イエスキリストの十字架により罪赦され、神の子とされました。
だから神の子ととして、主の似姿に変えられて行かなければならない。
クリスチャンという名を私が汚すことがない人格を持つべき。
この様な思いは、主の似姿に変えられたい。主が許して下さったように自分も隣人を許し愛する人となりたいという純粋な思いから出た思考だと思います。
しかし、自分の力や努力で、主の似姿に変えられるのでしょうか?
体も心もリラックスしましょう。
自分が頑張ったところで主の似姿に変わる訳ではないのです。
私たちは、「主の似姿に変えられたい」という切なる思いを持ち、それを主に祈るしかないのです。
自分の努力による信仰生活は、辛いだけです。
自分の努力で、正しい主の似姿に変わる事が出来るなら、私たちの心にはどうなるでしょう?
そのことを成し遂げた自分をほめたたえ、それができない人を見下す者となってしまいます。
しかし、主によって聖霊によって変えられた者は、自分ではできなかったことを成し遂げてくださった主をほめたたえ、御前にへりくだることができます。
キリスト者の常識、こうあるべきという型にはめた主の似姿を作り出し、そこに近づこうと辛い信仰生活を送っていないでしょうか?
この様な信仰は、律法を厳格に守り事を重視した「パリサイ人」と言われる人たちの信仰に、似ていないでしょうか?
どうしたら主の似姿に変えられて行くのでしょうか?
主を深く知り、主と親しくなることです。
主を深く知る為には、聖書を読み、賛美し、祈るのです。 通われている教会の聖書勉強会に出席する事も大切です。
主がどういったお方なのか、まず知らないと主の似姿も分からないですよね。
主との二人だけの時間を十分に持つことに楽しみを感じて欲しいです!
今日も、主と共に歩みましょう!
祝福された一日となりますように!