すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
ルカ10:27
イエス様は私たちに『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』と言われました。
当時のユダヤ人たちは、敵と隣人を区別していたそうです。
敵でない隣人は、イスラエル民族、改宗者を含めたユダヤ教徒、同郷人、親戚、家族、近所の人などに区分されていました。
この御言葉の後に、律法の専門家は、それをはっきりさせなければ、隣人を愛することはできないと、「自分を正当化しよう」として、『では、わたしの隣人とはだれですか』と聞いたそうです。
それに対して、イエス様は善きサマリヤ人の例え話をされました。
「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、強盗に襲われた。服をはぎ取られ、殴りつけ、半殺しにしれた。ある祭司が、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人も、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。次にあるサマリア人は、その人を見て憐れに思い近寄って傷に油とふどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日に、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡し介抱を頼みます。費用が必要なら帰りに払うと言いました。イエス様は「あなたはこの三人の中で、誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」と問われました。 律法の専門家は「その人を助けた人です。」と答え、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた。と言う話です。
イエスは、だれが隣人であるかを「枠付け」「線引き」することを避けられました。
助けを必要としている人が「隣人」であることを示されたのです。
こんなお話があります。
山の雪道を先に急いで歩いている人がいました。その人は前方に行き倒れになっている人を見ました。しかし、自分が寒さの中で凍えて倒れてしまう危険があるのに、「この人の面倒を見ている余裕はない」「自分の命が危ない」「共倒れになってしまう」と、見過ごしにして素通りし、先を急ぎました。
その様子を見ていたもう一人の人がいました。その人も「この山道で凍死してしまうかも・・」という不安をもちながら歩いていました。人のことなど構っていられる状況ではありません。
しかし彼はクリスチャンでした。彼は倒れているその人に近づき、このままにしてはおけないと、かついで歩いて行きました。
すると、結果はどうなったと思いますか?
寒さで凍えていた体は、人をかついだことによって温まって行き、熱を帯びてきました。歩く力がかえって出てきたのです。
しばらくかついで歩いていると、見過ごしにして先を急いで歩いて行った人が、雪道で凍えて倒れて死んでいました。
そして、倒れていた人をかついで歩いていった人の命は助かりました。
彼はこの体験を通して大きな教訓を得たとそうです。
「自分だけを救おうと思う者は命を失い、他者の命を救おうと思う者が自分の命をも救う。」
「隣人」とは助けを必要としている人の事です。
自分が、助けを必要とする状況にあったら、どうして欲しいか、それを考えて、自分の前で助けを必要としている人に、自分のできる限りのことをすることが、
「隣人を自分のように愛する」と言うこと。
そのような隣人愛がなければ、
人は、「心を尽くし精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神である主を愛することができない。」
「隣人を愛する」って難しいですよね。
さっきの雪道で、自分も凍死する可能性を感じながら隣人に手を差し出すというのは、凄く難しい選択です。
究極な選択を短時間で(もしくは考える間もなく)正しく選択するために・・・
日頃からのデボーションが大切だと思います。
何の準備もなく、ある日突然、究極の選択が自分の目の前にやって来た時、
正しい選択をすることは難しいです。
日頃からの準備が大切です・・・