25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
27 目を覚ました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。
29 看守はあかりを取り、駆け込んで来た、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。
使徒の働き16:25-31
聖書の個所は昨日と同じです・・
今日は賛美についてです。 聖書には「賛美」と言う言葉が169回も出てくるそうです。
賛美って誰に向かってするものですか?
主に向かって捧げるものですよね。 賛美とは「霊的な捧げ物」です。
賛美とは偉大な王である主に向かって褒めたたえるものです。
ただ、主はもともと偉大な王であるので、私たちが賛美を捧げる、捧げないに関わらず、その尊厳に左右する事はないです。
ではどうして賛美をするのでしょう?
私たちは、心打つ良い歌や音楽を聞いたら、拍手喝采で受けた感動をアーティストに表します。
「とっても良かった」「感動した!」という心が満たされたという事を伝えたくなります。
拍手喝采にならなくても、そのステージの価値は下がりません。良いものは良いのです。
しかし、私たちはとても心満たされれば、それを表現したくなります。
感動させてくれた相手に、感動した!と、どうしても伝えたくなり感謝したくなるのです。
アーティストもその拍手を聞き、ここに集まった人たちを満たすことが出来たと確信して幸せな気分になるのです。拍手することによりお互いに、一層満たされた状態になります。
これと賛美は同じだと思います。
主によって感動し、心満たされれば、私たちはそれを賛美と言う形で応答するのです。主も賛美を受ける事を好まれます。
私たちが感謝の心を持って捧げる賛美を喜ばれるのです。
だから感謝は必要なのです。
聖書の個所を見ると、
パウロとシラスは、ムチ打たれ投獄されても、賛美をしました。パウロとシラスはこの上ない苦痛を覚え、肉体的に辛い状態だったはずです。しかしその状態とは別に、心は主に向かっていたのです。状況に寄らず、感謝をし主を見上げていたのです。
パウロとシラスの賛美を投獄された人たちも聞き入っていたのです。
投獄されている人たちにとって、今ある自分の状況は最悪な状況であり、絶望感、挫折感や後悔、恨みなどの、苦しみの中に置かれていました。皆が同じような状況、同じような心境の中、聞こえてくる賛美。
「うるさい!」と罵倒しても可笑しくない状況ですが、皆が聞き入ってるのです。
そして、28節をみたら、 自殺しようとしている看守に対して、パウロは大声で、
「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。とあります。
パウロとシラスだけでなく、他の囚人たちも脱走しなかったのです。
昔の時代ですから、監視カメラもなく逃走しても捕まる確率は今よりグッと低いはずです。
折角、自由を手に入れる事ができる状況でありながら、囚人たちもそれを選ばなかったのです。
その理由は書かれていませんが、パウロとシラスの賛美を通して「心が溶かされた」のではないでしょうか? 賛美を聞く前まで、絶望感、挫折感や後悔、恨みなどで心が一杯になって溢れていた心が、賛美を浴びて、心が溶かされ、今まで感じた事がない平安に包まれたのではないでしょうか?
「自分が知らなかった何かがある」と感じたのではないでしょうか。願ってもなかった脱走という道を選ばず、その場に留まらせる何かが心に入ってきたのです。
賛美は「霊的な捧げもの」であり、主に向かって捧げるものですが、人の心にも向かうのです。
私たち人間は、主の被造物です。主は私たちのたましいが主に向かうように創造されています。その部分に賛美が働くのではないでしょうか。
私たちは賛美を通して、心が熱くなり、心の深い所から何かが沸き上がってくるような経験をした事はないですか?
賛美の中にいると、沢山あった心配事や、傷ついた心から解放されたように感じ、体も心も軽く感じた事はないですか?
賛美は、私たちの「硬くなった心」「疲れ切った心」を溶かすことが出来ると思います。
賛美の中で心が溶かされ、主が創造された時の自分、曲がった物がない純真な思いで満たされませんか?
凄く大切なポイントがあります。
私たちが問題に直面した時に、私たちの目も心も問題に集中し、簡単に心が奪われてしまいます。
問題が生じた時、問題に集中するのではなく、私たちは自分の目を主に向けるべきなのです。しかし、分かっていてもなかなか難しいです。
だからこんな時に賛美はとても役に立つのです。自分を取り巻く状況が問題だらけだったとしても、賛美を通して、私たちの心の深い所が主と繋がるのです。そうすれば、私たちは問題の波に流されず、心の錨(いかり)を心の深い所に繋げておくのです。いつでもロープを辿って主の元に戻ることが出来るように。道に見失わないよように・・・
私たちにとっては到底解決できない大問題であったとしても、主にとっては大した問題ではないのです。
神に出来ない事は、何一つありません。
私たちが賛美をして、主をほめたたえ感謝を捧げる時に、私たちの物事への見方が変わってきます。自分勝手な人間的な見方から、主ご自身がご覧になっている、真実な見方へと変えられていきます。
ですから、問題を毛嫌いし、怖がる必要はないのです。 私たちは問題を通して主を見上げ、霊的な部分を呼び起こす事が出来るチャンスでもあるのです。
賛美は、主に向かって感謝を捧げるもの、霊的な捧げものです。同時に、人の心奥深い所を揺さぶるものでもあるのです。またクリスチャンにとっては、問題や苦難の波に流されないように、錨を下ろした場所に迷わず戻る方法でもあるのです。
今日も、賛美に満たされましょう!